2月3日放送のNHK『映像の世紀バタフライ・エフェクト』「ラストエンペラー溥儀 財宝と流転の人生」を視聴した。その内容をメモ。
冒頭で紹介されたのは、8億円もの価格で落札された腕時計。それは溥儀が所持していたものだった。清朝の乾隆帝の印とともに、彼がかつて手にしていた莫大な財宝が歴史の中で流転していく様子が示された。
溥儀は2歳で皇帝に即位し、13歳でイギリス人教師ジョンストンを迎えた。西洋文化に魅了され、自転車やカメラといった近代的なものを好むようになる。弁髪を切り、広い世界に憧れを抱いた。16歳で婉容と結婚し、海外留学の夢を抱いたが、その夢が叶うことはなかった。
1925年、溥儀は紫禁城を追われ、日本の大使館に庇護を求める。天津で自由な生活を楽しみ、西洋貴族のような振る舞いをしていたが、彼の心には清朝再興の夢が消えずに残っていた。そんな彼のもとに近づいてきたのが関東軍であった。
満州事変の後、満州国の元首に誰を据えるかという議論の中で、溥儀が選ばれる。皇帝になることを条件に日本側の誘いに応じたが、与えられたのは「執政」の地位だった。「皇帝になれないのなら隠居する」と拒否するも、退路はすでに断たれていた。
満州国皇帝に即位するも、実態は傀儡。国家の公式行事には軍服を着るよう命じられ、その支配下にあることを実感する。1935年には日本を訪問し、昭和天皇と対面した。次第に自らも天皇と同等であるべきだという野心を抱くようになるが、関東軍はその動きを警戒し、溥儀の監視を強めていった。
一方、私生活では悲劇が続く。弟・溥傑は日本人女性と政略結婚させられ、皇位継承法も制定された。子のいなかった溥儀は、これを日本の陰謀だと疑うようになる。婉容との関係は冷え切り、彼女は従者との間に子をなすも、その子はすぐに亡くなった。絶望の中で婉容はアヘン中毒に陥る。
戦争が激化する中、満州も日本の戦争遂行のために利用され、ついにはソ連軍が満州に侵攻。溥儀は財宝を厳選して持ち出し、朝鮮国境へ逃れようとするが、空港でソ連軍に拘束される。一方、婉容は収容所を転々とし、アヘンが手に入らないため禁断症状に苦しむこととなった。
東京裁判では「関東軍に利用された」と主張し、満州国の官僚たちを唖然とさせる。彼が最も恐れていたのは、中国へ送還され処刑されることだった。スターリンに永住を願い出る手紙を送り、高価な宝飾品を献上しようとするも、ソ連の軍人たちは次々に財宝を巻き上げていった。
やがて中華人民共和国が誕生し、溥儀は戦犯管理所へ送られる。持ち出した財宝すらも思想改造の場では何の役にも立たなかった。10年の改造教育を経て、特赦を受け釈放される。「私を真人間に改造してくれた祖国よ」と述べる彼は、かつての皇帝の姿とはまるで別人だった。北京の植物園で働き、市民としての人生を歩むこととなる。
1965年にはNHKの番組にも出演し、「熱烈な共産主義者になった」と語った。毛沢東は彼のことを「死を恐れる小心者」と評したという。1962年には看護師と結婚し、プロパガンダとして利用されることとなった。
だが、文化大革命が始まると、彼にも再び矛先が向けられる。かつて虐待していた使用人から届いた手紙。「お前は本当に改造を受け入れたのか?」という一文に、溥儀の手は震えたという。彼はがんを患い、1967年に61歳で死去。どの病院も彼を受け入れなかったという。
1972年、日中関係の正常化により、かつて溥儀が持ち出した「清明上河図」が外交の場で脚光を浴びる。そして2012年には、日本で幻の名画「五馬図巻」が発見された。溥儀が売却した美術品のうち、300点以上はいまだ行方不明のままだという。