[PR]

映画宣伝の新常識!スキャンダルは通用しない、SNS時代は「ケンカ」が命取り?


SNS時代の映画宣伝に関して、Hollywood Reporterが興味深い記事を掲載していた。かつてはスキャンダルすら宣伝に利用できたが、現代は逆に作品にとっても、俳優にとっても致命傷になりかねないものとなったことを指摘している。

ハリウッドの“ケンカ商法”はもう通用しない――Lively vs. Baldoni騒動が示す、イメージ管理の崩壊

ハリウッドにおけるセレブ同士の確執は、かつては“演出されたスキャンダル”としてブランド価値を高める手段であった。だが現在では、SNS上で瞬時に拡散される無秩序なバトルへと変貌し、キャリアそのものを破壊しかねない事態へと進んでいる。

俳優ジャスティン・バルドーニとブレイク・ライブリーが共演中の映画『It Ends with Us』の現場で発生したとされる確執は、その典型例だ。撮影現場での意見の相違やエゴの衝突が噂される中、ライブリー側は「有害な職場環境をつくった」とバルドーニを非難。一方、バルドーニの陣営は彼女を「扱いにくく、操作的だ」と反撃した。かつてなら水面下で処理されていたこうした対立も、今やSNS上で秒単位で拡散・分析され、ファンや第三者が勝手なストーリーを作り上げていく。

この騒動の本質は、個々の言動よりも、業界全体の構造変化にある。往年のハリウッドでは、広報担当がスキャンダルすらも伝説に仕立て上げる“芸”を持っていた。ベティ・デイヴィスとジョーン・クロフォードの確執は、皮肉とユーモアを交えた名言や演出によって映画の宣伝にもなった。「クロフォードはMGMの男性スター全員と寝た、ラッシー(犬)以外は」とデイヴィスが語れば、クロフォードは「デイヴィスは甘やかされた子ども」と返す。二人の確執は“戦争”だったが、そこにはある種の演出があった。

デビー・レイノルズ、エディ・フィッシャー、エリザベス・テイラーの三角関係も同様だ。フィッシャーが“アメリカの恋人”レイノルズを捨ててテイラーと結ばれた一件では、レイノルズが無垢な被害者、テイラーが妖艶な略奪者という構図が自動的に成立した。SNSなどなかった時代だからこそ、“沈黙”もまた戦略となり得たのだ。

2000年代に入っても、セレブはまだ物語の主導権を握っていた。マドンナとガイ・リッチーの離婚ではカバラ信仰や浮気疑惑が噂されつつも、マドンナはアルバム『MDNA』を発表し、痛みをパフォーマンスに昇華した。ガイ・リッチーは『シャーロック・ホームズ』で監督としての地位を再確立した。

だが2010年代、SNSという“制御不能な波”がすべてを変えた。テイラー・スウィフトとケイティ・ペリーのバックダンサーを巡る対立は、まだ楽曲やファンの対立構造によってある程度は“演出”できた。だが、ジョニー・デップとアンバー・ハードの裁判劇では、その限界が明らかとなった。証言はミーム化され、動画は加工され、SNS上で人格が切り刻まれた。もはやどちらが勝ったかではない。どちらも深く傷ついたのである。

そして、バルドーニとライブリーの一件だ。現在では、現場写真一枚、リーク動画一本がファンの間で“証拠”とされ、物語が暴走する。誰が正しいかではなく、「誰が物語の渦から生還できるか」が問われている。

もし今この二人にアドバイスするならば、「沈黙を取り戻せ」と言いたい。しかし、もはや手遅れかもしれない。そして、観客もこの瓦礫から目が離せないのだ。

問題は、単なる一対一の争いではない。問われているのは、セレブリティのイメージを作り出してきた“システム”そのものの崩壊である。かつては守られ、磨かれていたスターの姿は、今や誰でも編集できるコンテンツになってしまった。

ハリウッドの“ケンカ”は、もはや映画の宣伝にはならない。ただキャリアを燃やすだけである。