『PJ ~航空救難団~』第7話は航空救難団を描く本作において、最も重いテーマに正面から向き合った秀逸なエピソードだった。しかし、これを避けてもはこのドラマは完成しなかったであろう。
仁科蓮(濱田岳)の殉職という衝撃的な出来事を通じて、救難活動の過酷な現実と、そこに従事する者たちの使命感を深く掘り下げた。
仁科の死に自然の理不尽さが滲む
物語は前週から続く、仁科の行方不明から始まる。宇佐美(内野聖陽)は望みは捨てずに訓練生たちと向き合い続けるが、訓練生には動揺が走っている。その後、一週間の訓練期間の停止が決定される。そして、奇跡は待つ自衛隊員たちだが、実にあっけないほどに仁科の死亡が告げられた。自然の理不尽の前に人の命はちっぽけで無力なんだと思い知らされる。
そんな凶暴な大自然に航空救難団は立ち向かわないといけないのだ。このドラマは異様なまでに過酷な訓練の現場を描いているが、なぜそのような過酷な、前時代的とも言えそうなシゴキが必要なのか、改めて深く思い知らされる。人間のシゴキは自然の理不尽に比べたらまだかわいいものなのだ。
訓練生たちと事故検証する宇佐美
宇佐美(内野聖陽)が主導する事故検証のシーンは本話のハイライトといえる。山鳴りを聞きながらも少女の救出を選択した仁科の判断について、訓練生たちと共に考える場面は重層的な意味を持つ。「生き残ればその後50人救えるかもしれない、それでも眼の前の1人を救うべきなのか」という宇佐美の問いかけは、救難活動の本質的なジレンマを浮き彫りにしている。
訓練生たちは仁科の判断が間違っていたのかと宇佐美に問う。別の訓練生たちはこの判断が間違っていたか、正しかったのか、そんなことは考えられないとも言う。それでも宇佐美は考えることを止めるなと訓練生たちに言い聞かせる。靴を10秒早く履けば、ヘリの扉を5秒早く開けられれば、そうした小さな積み重ねがあれば、救出のための1分を稼げるかもしれない。訓練でも常に現場を想定しながら考えてやらなければいけないと、改めて宇佐美は訓練生たちにその大切さを教えている。
内野聖陽の演技は特に光っている。仁科の死を受け入れながらも、教官として訓練生たちに現実と向き合わせる姿勢は説得力がある。最終場面での号泣しながらの「あっぱれ」は、感情を抑制してきた宇佐美の人間性を表現した名演だ。
長谷場は別の道を行くことに
長谷部の離脱というサブプロットも効果的に配置されている。自分の限界を認め、別の道を選ぶ彼の決断は、全ての人間が同じ使命を背負えるわけではないという現実を示している。
本話が優れているのは、その判断の是非について明確な答えを出さなかった点である。「命に重みをつけることはできない」という結論は、視聴者にも深い思考を促す。救われた少女とその父親の登場により、仁科の死が決して無駄ではなかったことを示しつつも、それが正解だったかどうかは別問題として提示している。それでも仁科の妻だけは夫の選択を誇りに思うと言わせる。個々人に思うことはあれど、組織として、彼の判断の是非は別にあり、常に考えなければいけないとこのエピソードは描いている。
また、救助者に家族がいるように救難員にも家族がいる。救難員は生きて帰らなければいけないと宇佐美は言う。
訓練生たちの心の動きも丁寧に描かれており、特に家族を持つ東海林の動揺や、沢井の「動いていないと駄目になりそう」という心境は、若い隊員たちの等身大の感情として響く。
本作全体を通じて、航空救難団の活動を美化することなく、その過酷さと尊さを両立させて描いてきたが、本話はその集大成といえる出来栄えである。死と隣り合わせの職業に就く者たちの覚悟と葛藤を、感動の押し売りではなく、真摯な問題提起として提示した秀作である。