言葉の海を渡る舟、辞書。その一語一語が、私たちの世界をどう映し出し、どう形作っていくのか。NHKドラマ10『舟を編む』の第2話は、「恋愛」という誰もが知る言葉を切り口に、辞書作りの奥深さと、多様性を尊重する現代社会におけるその重い責任を、静かながらも力強く描き出した。
「傷つく人」に寄り添う言葉を。みどりの違和感が投げかけた一石
物語の中心で光を放ったのは、主人公・岸辺みどり(池田エライザ)の抱いた素朴な、しかし核心を突く疑問だった。
彼氏との別れを経験し、自らが無自覚に使っていた言葉に打ちのめされたみどり。彼女がふと引いた辞書の「恋愛」の項目には、「異性同士が互いに相手を想い慕うこと」とあった。当たり前のように記された「異性」という言葉に、彼女は違和感を覚える。なぜ、恋愛は異性に限定されなければならないのか。
この問いに対し、馬締光也(野田洋次郎)は「辞書の語釈には典型的な例が必要だ」と説く。しかし、みどりは食い下がる。「うさぎは辞書をひかないが、人間なら辞書をひいて傷つくのでは」。この言葉は、辞書が単なる言葉の定義集ではなく、それを読む「人間」の心に直接作用するものであることを鋭く突きつける。同性愛者がこの語釈を読んだ時、まるで社会からその存在を認められていないかのように感じ、深く傷つくかもしれない。みどりの言葉は、辞書編集部に静かな波紋を広げた。
辞書は時代を「追いかける」のか、「作る」のか
みどりの提起した問題は、「大渡海」編集部内で大きな議論を巻き起こす。監修の松本先生(柴田恭兵)は、「辞書は時代を追いかけるもの。時代を作るものではない」と、言葉の急進的な変更に慎重な姿勢を見せる。一方でみどりは、ファッション雑誌が時代を先取りするように、辞書が新しい価値観を示すことで時代を動かす力にもなりうると反論する。
この対立は、現代社会が直面する課題そのものを映し出している。伝統や既存の価値観を重んじるか、それとも未来を見据えて新たな価値観を積極的に受け入れていくか。辞書作りという静かな世界で交わされるこの議論は、私たちが生きる社会のあり方を問う、熱いテーマへと昇華していく。
失恋から始まった、みどりの「言葉」との向き合い
この大きなテーマは、みどりの個人的な成長と分かちがたく結びついている。当初、辞書作りに情熱を見いだせなかった彼女が、「恋愛」の語釈という問題に直面したことで、初めて当事者として言葉と向き合い始める。
彼女は自身の恋愛を「恋ではあったけど愛じゃなかった」と省み、「あきらめる」という言葉に「物事を明らかにする(明らめる)」という意味があることを知る。言葉の多義性を知り、自らの感情を客観的に見つめ直すことで、彼女は編集者として、一人の人間として、確かな一歩を踏み出した。
同僚の天童(前田旺志郎)からのカミングアウトと、「LGBTの人口は左利きとほぼ同じ」という事実は、みどりの視点をさらに広げる。マイノリティは決して遠い存在ではなく、すぐ隣にいるのだ。この気づきを経て、彼女が紡ぎ出した「恋愛」の新たな語釈案――「特定の2人の互いの思いが、恋になったり愛になったり、時に入り交じったちと、非常に不安定な状態」――は、拙削ながらも、実感と他者への想像力に満ちていた。それは、マニュアル通りの言葉ではない、彼女自身の心から生まれた「生きた言葉」だった。
このみどりの語釈は三省堂の「新明解国語辞典」改訂版の語釈を元ネタにしているのではないかと思う。
「恋愛」の相手は異性とは限らない――三省堂の国語辞典の語釈に変化、「SDGs」など新語も追加|サステナブル・ブランド ジャパン | Sustainable Brands Japan
第2話は、辞書の紙の「ぬめり感」に執着する馬締の姿なども交えながら、言葉一つひとつ、そして辞書という「モノ」そのものに込められた果てしない情熱を描いた。そして、岸辺みどりという主人公が、言葉によって傷つき、言葉によって自らを見つめ、言葉によって他者と繋がっていく様を丁寧に描ききった。
言葉の海は、時に荒れ、人を傷つける。しかし、その海を渡るための「舟」を編む人々がいる限り、私たちはきっと、より良い岸辺へとたどり着けるだろう。みどりの成長と「大渡海」の未来に、大きな期待を抱かせる一話であった。
登場人物
岸辺みどり(池田 エライザ)
馬締光也(野田 洋次郎)
宮本慎一郎(矢本 悠馬)
林香具矢(美村 里江)
佐々木薫(渡辺 真起子)
天童充(前田 旺志郎)
荒木公平(岩松 了)
西岡正志(向井 理)
松本朋佑(ともすけ)(柴田 恭兵)