イタリアにおける1980年代・90年代の日本アニメブーム
日本アニメは、かつてウォルト・ディズニーが築いた伝統的なアニメーション帝国と対照的な存在として認識されていたが、現在では世界的な文化現象へと発展している 。その始まりは1980年代のイタリアにおいて、日本の漫画を原作とするアニメが日々のお茶の間に浸透し、視聴者にとって身近な存在となっていったことに起因する 。ディズニー作品が「手厚く、貴重な」長編映画として特別な機会を彩るものであったのに対し 、日本アニメは短編エピソードと長い連続性が特徴であり 、「液体のように絶え間ない存在」として、温かく親しみやすい受け入れを可能にした 。年を追うごとにファンは増え、今や世界中で「アニメ」という名称で親しまれ 、その美的対象としての進化と視聴者の時代への適応能力が大きな関心を集めている 。アニメと、そのほとんどの場合においてアニメ化に先行する漫画(マンガ)は、熱心なファンとともに成熟し、彼らと共に成長し、彼らのおかげで成長し続けるという特異な特性を持つ 。
この独特な特徴は、日本アニメ、特に国際的に確立された作品の持つ生成的な力を雄弁に物語っている 。それは集合的想像力の既存の領域に入り込み、それを変容させ、最終的には新たなアイデンティティ環境を創造する能力を秘めている 。マンガとアニメを等しく結びつけるこの構築は、その有効性、すなわち継続的な影響力の成功がシリーズの成功を決定する 。そして、この動きとその価値観を巡って、さまざまなモラリストからの反応、すなわち批判を引き起こしてきた 。アニメはしばしば、芸術的・美的価値がほとんどなく、愚かで不必要に下品、あるいは無償で残忍な暴力や露骨で逸脱したエロティシズムに満ちていると分類されてきたのだ 。しかし、国際的な普及期にアニメが攻撃され検閲された理由を簡潔にまとめることは、その「意味に満ちた部屋」に光を当てることに他ならない 。そうした一見陳腐な批判からこそ、アニメが引き起こす楽しみの火花が再循環されるのだ 。
その「楽しみの火花」の第一は、義務感である 。日本アニメの最も有名なジャンルの一つ、ロボット(メカ)がその好例だ 。イタリアでは「Ufo Robot Goldrake」として知られる作品が、1970年代後半からの「侵略」の先駆者となった 。その筋書きは概ね定型化されており、地球と人類が破壊的な異星の力に脅かされるが 、高度な技術を持つ巨大なオートマトンが、清廉潔白な騎士によって操縦され、エピソードごとに悪党を打ち破るというものだ 。しかし、このパターンは長年にわたって進化を遂げた 。例えば「機動戦士ガンダム (Mobile Suit Gundam)」のような作品では、オートマトンはもはや疑念の完全な排除をもたらすものではなく 、注目は機械を操縦する人間へと移り、機械を自己の道具とし、そうでなければ禁じられた希望へのアクセス手段としている 。機械はもはや完璧で無敵のスーパーボディではなく 、自らの不完全さを克服し、不安を知り、それを受け入れることで打ち勝つための、自己の身体の延長なのである 。ヒーローは疑念を抱き、異星人との暴力的な衝突は、彼の内面的な葛藤の表象に他ならない 。これらのシリーズの主人公が思春期の若者であることは偶然ではない 。肉体的な成熟の追求は、未知の、聞き分けのない、閉鎖的で暴力的な怪物との絶え間ない闘いなのだ 。
「北斗の拳 (Hokuto no Ken)」のように、暴力的で残忍な衝突を表現上およびテーマ上の核心とするこれらのアニメは、義務の価値観を確立する役割を担っている 。これらのヒーローにとって、自己の義務を究極的に尊重し、自己を実現すること以上に重要で決定的なことはないのである 。それを発見し、それを果たすことは、一つであり、唯一のこととなる 。人間を救うために訓練された少年たちであろうと、「キャプテン翼 (Captain Tsubasa)」のようにサッカーワールドカップに勝つためだけに全力を尽くす少年たちであろうと、主人公たちの内なる独白に伴う義務感の自覚は、単純でありながらも並外れて強力だ 。それは、自己の成功のためにすべてを捧げること以外に重要なことはなく、自己の完全な献身が、生きる権利、帰属する権利の証であるという意識なのである 。
帰属意識という形式には、もう一つの主要なテーマ、すなわち日本の高校が舞台となるジャンルがある 。思春期の典型的な設定は、観客の日常的な野心や願望、例えば深い友情、初めての成功、喜び、失望、そして何よりも恋に焦点を当てる物語の枠組みとなっている 。魔法や超常現象の要素が時に現実を破ることはあっても、根底にあるリアリズムは、信じやすく、すぐに共感できる物語の舞台を提供する 。ここでは、視聴者が主人公たちの考えや夢の一部であるかのように、まるでテレビ画面の前で過ごす時間と学校や友人との時間が途切れることなく続いているかのように、一体感が視聴者を包み込む 。人気、友情、成長に加え、帰属意識の形式における最も決定的なテーマは愛である 。例えば「きまぐれオレンジロード (Orange Road)」のような作品では、内なる独白が、登場人物間の混乱、困惑、そして何よりも肉体的な魅力を語る長いキャプションとなっている 。日本のデザイナーによる、登場人物の目を現実的な描写よりもはるかに大きく描くという有名な技術的選択は、これらのシリーズにおいてその意味を完全に発揮する 。主人公たちの感情は、独白だけでは不十分な場合、彼らの目を通して伝えられるのだ 。
このように、時には控えめに、また時にはより露骨な性的言及を伴いながら、再び身体が帰属意識と第三の形式、すなわちエロスとの出会いを伝える媒体となる 。ヨーロッパ文学、アメリカ映画、アジアやその他の神話(例:「聖闘士星矢 (Saint Seiya)」はギリシャ神話の英雄を再解釈したシリーズである)を物語の源泉として利用し 、コメディや悲劇の典型的な技術やジャンルを用いることで 、日本アニメシリーズはエロスの新しい場所を創設すると言って過言ではない 。特に二つの美学が確立され、新たな性的アイデンティティの生成と集団的なエロティックな想像力の占有に貢献している 。それは「少女 (Shojo)」と「可愛い (Kawaii)」である 。
少女 (Shojo) の美学は、柔らかな線、細身のシルエット、繊細な調和を持つ身体の描写を特徴とし、一般的に女性の表現に認識されるスタイルに適合する 。その斬新さは、男性の領域への強力な浸透であり、アニメにおける女性的な特徴(繊細な身体、長く豊かな髪)を持つ男性ヒーローの登場によって顕示される(主要な例は「聖闘士星矢」である) 。
一方、可愛い (Kawaii) は、西洋のポップカルチャーにおいても極めて支配的で現代的な現象となっている 。イタリア語ではしばしば、特に女性的な幼児性を帯びた「carino(かわいい)」や造語の「puccioso(可愛い)」といった言葉で翻訳されるが、これらの翻訳は、「可愛い」が美学として暗黙的および明示的に帯びる強くエロティックな意味合いを失ってしまう 。フリルや「可愛い」小道具で飾られた身体への魅力は、それらの小道具自体と同じくらい「可愛い」に属しているのである 。優しさや純粋さの感情は、「可愛い」身体が呼び起こすエロティックな想像力と不可分に結びついている 。制服を着た女子高校生の姿は、アニメ作品の境界を越えて大衆文化にまで浸透した、広く認識されているエロティックなトポスなのだ 。
義務感、帰属意識、そしてエロスは、日本アニメの美学がその力を発揮し、限界を超えて啓示的な楽しみの場所となる次元である 。それは、イメージを通してアイデンティティ、社会的対立、そしてセクシュアリティの問題と対峙することを促す、深い享受の環境を提供するものなのだ 。
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