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山田尚子監督『きみの色』の言葉にならない感覚とは何なのか

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リアルサウンド映画部に、山田尚子監督の最新作『きみの色』について書きました。

なぜ『きみの色』を観て“言葉にしたくない”と感じるのか? 山田尚子の演出意図から考える|Real Sound|リアルサウンド 映画部

山田監督も、観た人の多くも「言葉にならない感情」とか、言い表せない感覚を語り、言葉にするのが難しいという感想が多い本作ですが、「言葉にする」ことのネガティブ要因について考えてみました。

そもそも言葉の機能とは何なのか、そこから考えてみることで本作を観たときの気持ちの正体に迫ろうという意図です。映像表現で言葉に規定されない感情を研ぎ澄ますことにどういう意味があるのか、そこを考えることで山田監督の作家性に迫ろうという狙いです。
 
 
以下、原稿作成時のメモと構成案。
 
 
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ことばの牢獄、記号的な惰性から抜け出すために。

言葉の牢獄について

ことばの筋トレノート『記号論への招待』|七浜安敦@米国公認会計士/中小企業診断士
ひとたび身につけた意味づけの体系ーそれが監修として確立すると、それは逆にそれを身につけた人を捕らえて離さない「牢獄」にもなる。捕らえられた人間は、その意味づけの体系の決まりに従って、ものを捉え、行動する。人間は機械のように動き、全てが「自動化」する。何かが起こっているようで、実は何も起こっていない。そういう世界が生じてくる。
詩人は何よりもこの言葉の牢獄に挑む人たちである。そこでは日常のことばを超える言語創造を通じて、新しい価値の世界が開かれるわけである。
人間は、自分のまわりの物事に対して意味づけをしないではいられない存在である。しかもその際の意味づけは、すべて人間である自らとの関連で行われる。自然的な対象であっても、それが人間との関連でどのような価値を有しているかという視点から捉え直され、人間の世界のものとして組み入れられる。その世界は、すぐれた意味での文化の世界である。そして、そのような世界の創造、維持、それから時間的・空間的いずれもの意味における伝達ーこういった全ての文化的な営みに、人間が記号をあやつるという営みが深く関わっている。人間は確かに「記号を使う動物」なのである。
 
Story 2 「物語」を生み出す言葉 | 山極 寿一(人類学・霊長類学者) | 作者・筆者インタビュー | みつむら web magazine | 光村図書出版
言葉は「物語」を生み、その「物語」は価値観の一元化と共有を促進します。ヨーロッパの探検家がゴリラに「物語」を与えた結果、「暴力的で恐ろしい悪魔」という価値観が共有されたのです。
 
言葉の牢獄の外に出るための映像、、詩人は言葉でその牢獄に挑む人。
山田尚子は映像でもってその牢獄に挑む、、なおかつ映像の記号論的な牢獄にも挑んでいる人。
 
 
思考と言語どちらが先? | 上智大学外国語学部フランス語学科
あなたは思考と言語、どちらが先だと思いますか。
これは私が学部で履修していたPensée et langageという授業で一番初めに教授が出した質問です。言語が先であると答えた場合、「今自分が見ている世界は自分が話している言語、または育ってきた環境の中で形成されたものである」と考えることになるでしょう。反対に、思考が先であると答えた場合には、「言語は考えを伝える媒体にすぎず、思考が言語に影響を与える」という意見になるのではないでしょうか。
 
 
参照
– 映像の言語で思いを届ける — アニメーション映画『きみの色』公開記念! 山田尚子監督・髙石あかりさんインタビュー | 瓜生通信
すべての意味を限定してしまわない描き方ができたんじゃないかと思います。例えば、感情に「好き」って名前がついていたとして、その名前がつく前の、気持ちが芽生えた瞬間から感覚として感情を描いていくことができたというか。難しかったですが、映画にとってはいいテーマになったかなと思います。

山田尚子監督「世界で私だけが観てる」 10代の「夜の闇」で大切にした「自分だけの好き」 | AERA dot. (アエラドット)
【特別対談】山田尚子×新海誠が語り合う、創作論から監督ならではの悩みまで―― : 映画ニュース – 映画.com
– 山田尚子監督 新作アニメ映画「きみの色」 「言葉に頼らない表現」を追求:東京新聞 TOKYO Web
音楽や青春ものを得意とする山田監督は「言葉をうまく操れるわけではない」という自覚がある。「言葉が本質的な意味を失って独り歩きしていないか。見つめ直すきっかけにしてもらえたら」と話す。

映画『きみの色』山田尚子監督&牛尾憲輔がディープな音楽遍歴をぶちまける〈相互リスペクト〉インタビュー | アニメ | BANGER!!!(バンガー) 映画愛、爆発!!!
– 劇場アニメ『きみの色』が公開。脚本家・吉田玲子が、監督・山田尚子との仕事術を語る | ブルータス| [BRUTUS.jp]
「山田監督のキャリアは『けいおん!』からスタートしているんですが、自分の原点は音楽ものという意識があって、今回はその原点に戻ってみたい、今の時点で、改めて音楽ものをやってみたいという思いがあったようです」
 
 
キリスト教的には、言葉は重要なのだ。
キリスト教とことば 水谷誠
キリスト教神学者、水谷誠「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」(創世記第1章3節)。神がことばを発すると、それは現実のものとなります。換言すれば「神のことば」に活かされて生きている人間の集団がキリスト教です。

 
Thesis
昔からよく監督が言う、言葉に頼らない、意味を限定しないということを噛み砕く文章にする。
それでいて、この原稿自体も軽やかさを失わないように書く
 
 

構成9月1日

Thesis
映像のための物語か、物語のための映像か

 
Point3つ
山田尚子監督の作家性。。。決めない、ということ。未規定なもの
ことばの牢獄の外、映像記号の牢獄の外に出る
色と音、というモチーフ・・・・視覚と聴覚への原初的関心
 
 

Intro

言葉は物語を生み出す。
Story 2 「物語」を生み出す言葉 | 山極 寿一(人類学・霊長類学者) | 作者・筆者インタビュー | みつむら web magazine | 光村図書出版
言葉は「物語」を生み、その「物語」は価値観の一元化と共有を促進します。ヨーロッパの探検家がゴリラに「物語」を与えた結果、「暴力的で恐ろしい悪魔」という価値観が共有されたのです。
 

惰性の中にある日常のことばの牢獄から、彼女の視点は自由である。

実は日常のそれらは、我々が日頃考えているいつような当然のものではなくて、それ以上の何かであるという認識

好きを映像で表したのではない、ことばでは「すき」という記号で表されることなるかもしれない、それに近い何か、映像が変わりに別のことばとして機能させるような、それにきづいたとき、新しい感情を知る。。山田尚子はそのように新しい感情を映像で創造している。

モデルの再現から降りること、センスの哲学P44 再現志向ではなく、子供の自由に戻る。

まず、言葉を考えることから始める。そして、物語がないことから始める。

それから芸術一般、映像へと落とし込んでいく構成にする。
 
 

Body1映像、

映画をつくるのは何のためか。

ある物語を伝達するための手段として映画を捉えるか、それとも、物語を映像を作るための手段と考えるか。

本作は「色」と「音」を描く映画。

青春時代の高校生を主人公に、学校を舞台にしているが、音楽と色の織りなす映像と音の調律を描きたいのであって、3人の物語を描きたいのかというと、違うわけではないが、最終目標というわけでもない。

先日対談していた新海誠とは異なるスタンスがある。物語を伝えるためにアニメ・映画という手段を用いるのか、映像の完成を伝えるために物語の方を手段とするのか。

Continueの牛尾さんの指摘

色・・・キレイだと思う。なぜか。決められた理由のない世界

音・・・楽しいと思う。なぜか。決められた理由のない世界

色を見てキレイと思う気持ち、音を聞いて楽しいと思う気持ちがあれば、それだけでいい。

「色」・・・視覚情報

「音」・・・聴覚情報

この2つで構成するのが映画。。。映画の原初の喜びを

この作品に物語がさほどない、では何を楽しむのか。色がキレイ、音が楽しいだけで人は充分に楽しめるということ。もともと、芸術に触れるというのはそういうこと。
 
 

Body2言葉の牢獄の外に出る、ということ

人が伝達する手段として、言葉がある。伝達する手段、記号をことばと広義に規定すると、映像も、物語もことばである。

山田監督は、本作の取材に限らず、よく「言葉にならない感情を」というようなことを言う。

映像の言語で思いを届ける — アニメーション映画『きみの色』公開記念! 山田尚子監督・髙石あかりさんインタビュー | 瓜生通信
すべての意味を限定してしまわない描き方ができたんじゃないかと思います。例えば、感情に「好き」って名前がついていたとして、その名前がつく前の、気持ちが芽生えた瞬間から感覚として感情を描いていくことができたというか。映像の言語で思いを届ける — アニメーション映画『きみの色』公開記念! 山田尚子監督・髙石あかりさんインタビュー | 瓜生通信

ことばとは何か。

ひとたび身につけた意味づけの体系ーそれが慣習として確立すると、それは逆にそれを身につけた人を捕らえて離さない「牢獄」にもなる。捕らえられた人間は、その意味づけの体系の決まりに従って、ものを捉え、行動する。人間は機械のように動き、全てが「自動化」する。何かが起こっているようで、実は何も起こっていない。そういう世界が生じてくる。

詩人は何よりもこの言葉の牢獄に挑む人たちである。そこでは日常のことばを超える言語創造を通じて、新しい価値の世界が開かれるわけである。

人間は、自分のまわりの物事に対して意味づけをしないではいられない存在である。しかもその際の意味づけは、すべて人間である自らとの関連で行われる。自然的な対象であっても、それが人間との関連でどのような価値を有しているかという視点から捉え直され、人間の世界のものとして組み入れられる。その世界は、すぐれた意味での文化の世界である。そして、そのような世界の創造、維持、それから時間的・空間的いずれもの意味における伝達ーこういった全ての文化的な営みに、人間が記号をあやつるという営みが深く関わっている。人間は確かに「記号を使う動物」なのである。

感情、行動、動作にことばを与えると、それは意味づけの体系に従うことになる。そうして全てが自動化の機械となっていく。その言葉の不自由さに敏感な作家だ。

思春期を描くというのも、ここに理由がありそう。

好きと言葉を当てはめた瞬間、それはカタチを伴う。カタチに固定される。それ以外の形になる可能性を失う。これがことばの牢獄だ。

映像の力でそれを突破するのが山田尚子の意図すること。

だからこそ、物語がない方がいい。物語もこうだと規定すればするほど、それ以外の可能性を失うからだ。永久に固定されることを拒絶するアニメーション的姿勢。

だから、「色」と「音」。。。意味に還元できない単位まで解体していく。
 
 
Body3 軽やかであること

意味よりもテイスト
 
 

構成2 9月2日

Intro

山田尚子監督のネタバレに対する態度について、牛尾憲輔さんとの対談記事から
物語のネタバレはOKだけど、細部のネタバレには怒る。

端的にこの映画は、そのように作られている。

山田尚子監督はしばしば、言葉に捕えられない感情を、という言い方をする。

言葉、そして、物語をどういうものだと捉えるか、そこから始めていく。

まず、言葉を考えることから始める。そして、物語がないことから始める。

それから芸術一般、映像へと落とし込んでいく構成にする。
 
 

Body1言葉とは

言葉に規定されたくないのはなぜか。

そもそも、言葉とはどういうものだろうことを考えてみる。

山田監督の引用、、好きという

映像の言語で思いを届ける — アニメーション映画『きみの色』公開記念! 山田尚子監督・髙石あかりさんインタビュー | 瓜生通信
その名前がつく前の、気持ちが芽生えた瞬間から感覚として感情を描いていくことができたというか。映像の言語で思いを届ける — アニメーション映画『きみの色』公開記念! 山田尚子監督・髙石あかりさんインタビュー | 瓜生通信

言葉の牢獄について。

記号論への招待

ひとたび身につけた意味づけの体系ーそれが監修として確立すると、それは逆にそれを身につけた人を捕らえて離さない「牢獄」にもなる。捕らえられた人間は、その意味づけの体系の決まりに従って、ものを捉え、行動する。人間は機械のように動き、全てが「自動化」する。何かが起こっているようで、実は何も起こっていない。そういう世界が生じてくる。

詩人は何よりもこの言葉の牢獄に挑む人たちである。そこでは日常のことばを超える言語創造を通じて、新しい価値の世界が開かれるわけである。

例えば、「好き」「愛」と名付けられる感情があったとする。自分の芽生えた感覚に外から愛と名付けられれば、それは愛と認識されることになる。

同時に、愛以外の感情になる可能性は阻害される。

そのように、日常であらかじめすでに決められた言葉を使い続けると、人はいつしか自動機械になると言う。詩人はそのことばの牢獄に、挑むのだと。

山田尚子も、そういう狙いがある。言葉に規定されない感情を規定せずに、映像という別の「ことば」を用いて惰性的な言葉遣いのから脱出しようと言う試み

言葉とは物語を生み、その物語は価値の一元化して、コミュニティを形成する。一元化は言い換えると牢獄である。

Story 2 「物語」を生み出す言葉 | 山極 寿一(人類学・霊長類学者) | 作者・筆者インタビュー | みつむら web magazine | 光村図書出版
言葉は「物語」を生み、その「物語」は価値観の一元化と共有を促進します。ヨーロッパの探検家がゴリラに「物語」を与えた結果、「暴力的で恐ろしい悪魔」という価値観が共有されたのです。
 
 

Body3映像とは

映像は言語ではないが、ことばである。広い意味で。
 
 
本作は「色」と「音」を描く。物語ではない。

ネタバレの話に通じること。。。物語を語るために映像は手段か、それとも映像を作るために物語を用意するのか。どっちが重要なのか。

どこまでも映像作家な山田尚子。。。。

色・・・キレイだと思う。なぜか。決められた理由のない世界

音・・・楽しいと思う。なぜか。決められた理由のない世界

色を見てキレイと思う気持ち、音を聞いて楽しいと思う気持ちがあれば、それだけでいい。

「色」・・・視覚情報

「音」・・・聴覚情報

この2つで構成するのが映画。。。映画の原初の喜びを

この作品に物語がさほどない、では何を楽しむのか。色がキレイ、音が楽しいだけで人は充分に楽しめるということ。もともと、芸術に触れるというのはそういうこと。
 
 

Body4 具象から抽象へ

どうも吉田玲子の脚本では、もう少し明確な葛藤のドラマ、つまり物語があったようだが、山田監督が絵コンテでそういう要素を削ったらしい。

具象的な記号に頼らない表現へと接近している。

カメラを用いて除くのは、フォトリアルな世界ではなくなってきた。

レンズボケとピントズレが以前にもまして増えた。抽象としてのフォーカスアウト。

この映画が軽やかな作品であること。

この作品を意味で捉えることを一切やめて、リズムにのる。色と音のリズム
 
 
ただ、色と音の織りなす部分をみればいい。だれでも子ども時代はそうしていたはず。

ことばの牢獄に囚われる前の人間はだれもができていたはずのこと

部分部分の「ノリ」で鑑賞するのが劣るわけではない。

その軽やかなノリで全編を通すのが、この映画の面白いところ。

こういう態度が山田作品で最も強かったのは『けいおん!』、日常系には物語がないことを批判する向きがかつてあったが、むしろ物語という大きな意味を抜け出して、リズムと感覚で引っぱれるだけの強度ある映像を作れることに凄さがある。

その意味で、一番近いのはやはり『けいおん!』音楽を題材にしていること以上に、ノリのリズムを全面的に展開しているから。次いで『リズと青い鳥』。あれは、吹奏楽部が金賞を受賞するという大きな物語の傍らで小さな感情の揺れ動きを描写するものだった。

難しい作品ではない。むしろ、メタファーとかですらない。色がキレイ、音が楽しい。実際にはそれだけで映像鑑賞は楽しい。意味に頼らなくても、物語に寄りかからなくても、二時間の至福を作れる稀有な作家の到達点だ。
 
 

軽やかさが足りない・・・センスの哲学くらい軽い文体で書けないか。センスの哲学の引用する?

千葉雅也、センスの哲学
大きな意味から小さな意味へ
P99
 
 
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メモ終わり。

難しい作品ではないと思います。ただ、言葉が溢れすぎてなんでも名付けたがる感覚に囚われていると、難しく感じてしまう作品かもしれません。考える必要はないんです。リズムを掴めばそれでいい。

こういう作品の楽しみ方を知ることができれば映画鑑賞ってもっと楽しくなるんです。言葉の意味に還元できない何かがあると知っているだけで人生の楽しさも増しますし、そういう感覚を味わえる作品は、今ではかなり稀有です。大変貴重な作品だと思うので、是非トライしてみてください。
 
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