先日、アジア人の女性作家として初めてのノーベル文学賞に輝いたハン・ガンさんの小説『すべての、白いものたちの』を読んだ。文庫化されていて、お手頃な値段だったのだ。
「白いものについて書こうと決めた。」の一文から始まるこの小説は、小説と散文詩の間をゆくような作品だ。一編はそれぞれ短く、日常にある「白いもの」についての詩的な文章でつづられ、全体を通して読むと、生まれてすぐに亡くなった姉への想いと、それゆえに生を受けた自分、韓国とワルシャワの歴史に思いを馳せつつ、「私」に姉が乗り移ったかのような、不思議な文章が続いていく。生きているものと死んでいるものがないまぜになる感覚を、美しい文体でつづっている。
「産着」という一編(P21)では、生まれてすぐに亡くなった姉のその瞬間が綴られている。生まれて2時間で死んだその子は「タルトックのように色白の女の子」だったという。かなりの早産で、予期せぬ出産だったようで、母親は1人で産んだという。
「小さな産着を一枚縫えるほどの白いきれがあった。陣痛をこらえ、恐ろしさに泣きながら針を動かした。産着を縫い上げ、おくるみに薄い上掛けを取り出して、徐々に強く、間隔が狭くなる痛みに耐えた」(P22)にもかかわらず、赤ん坊は息を引き取った。
タルトックとは月のように丸い餅のことらしい。作者自身、どんなものか知らなかったのだが、その次の一編「タルトック」で、6歳のときに「松餅(ソンピョン)を作っているときに、突然わかった」と書く。
タルトックは検索してもなかなか見つけられなかったのだが、ソンピョンとはこういうものらしい。
でも、ハン・ガンさんは、「蒸す前のあの米の生地とはまったく別ものになっていた」(P24)という。「母が言っていたのはあの、蒸す前の白さのことだったのだ」と。
検索して探してみたソンピョンは充分に白くて綺麗に見えてしまったのだが、こうして加工する前のもっと何が違う白さなのだろう。ありのままの白さみたいなことだろうか。
全体的にはこのようにランダムに様々な白いものについて思索をめぐらせていくのだが、姉のことと、滞在中のワルシャワの死の記憶のようなものへと連想がつながっていく構成となっている。
一章「私」の最後に「私はもう、自分に尋ねない。この生をあなたに差しだして悔いはないかと」で、二章「彼女」は二時間で死んだ姉に自分の生を与える。憑依というか、死んだ姉が自分の身体を借り受けたという仮定で、その姉の視点で様々な白いものについて語りだす。
そうして、三章「すべての、白いものたちの」で再び、本人の視点に戻っていくのだが、なかなかに刺激的な読書体験だった。臨死体験のような読書体験というか。そして、「もしもあなたが生きているなら、私が今この生を生きていることはあってはならない」(P147)という境地に達していく。
生から死、死から再び生に戻ってくるこの感覚はとてもユニークで、死者がすぐ生者のそばにいることを実感させる。東洋的な死生観で、日本人にも感覚的に分かる部分が多いような気がする。
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