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『アン・シャーリー』第一話レビュー:時代精神の刻印のされ方の違いを桜並木のシーンに見る


人間はそもそもリメイクに厳しい生き物

アンサー・スタジオ制作のテレビアニメ『アン・シャーリー』第一話「世界って、とてもおもしろいとこね」を見た。本作は名作文学を原作に持ち、日本においてそのイメージは、巨匠高畑勲監督の1979年の『赤毛のアン』が決定づけたものだ。その名作に再びアニメで挑むというのは、小津安二郎の映画のリメイクを手掛けるようなものであろう。

リメイクというものはいつでも揉める。実写映画でも揉める。リメイクは名作だからリメイクされるわけで、あらかじめ比較される運命にある。かつて、筆者は「そもそも、人間はリメイクに厳しい生き物である」と書いたことがある。
リメイクアニメはなぜ批判されるのか メディア間“翻案”の歴史からみるリメイクの創造性|Real Sound|リアルサウンド 映画部

映画批評家の北村匡平氏はリメイク映画とは、「リメイク映画」は「オリジナル映画との比較」という宿命を背負って世界に産み落とされ、「焼き直し」や「創造力の欠如」という固定観念から高く評価されることはあまりない。「商業的にリスクヘッジ」できるメリットがある一方で、「芸術作品としてはリスクを負って」いると説明しているのだが、全く同感である。(『リメイク映画の創造力』水声社、2017年、編著:北村匡平・志村三代子、P16)

リメイクを評する時、個人的に気をつけているのは比較優劣の発想に陥らないようにすることだ。比較ではなく、方向性の違い、時代精神の刻印のされ方など、優劣の上下関係で捉えるのではなく、水平に「異なり方」を見る。これができないとリメイクものを見るためのスタート地点に立てないと思っている。
 

桜の花びらを掴みにいくアン・シャーリー

さて、アンサー・スタジオの『アン・シャーリー』は、どういう方向性を打ち出しているのか。

1話だけで語れることはさほど多くないし、結論を急ぎすぎるのは良くない。だが、主人公アンのキャラクター付けについては高畑監督作品とは結構違う。端的にかなり快活な元気いっぱいの女の子として描いている。ともすれば、落ち着きのないくらい元気な子だ。

高畑版のアンは、想像力豊かでおしゃべりな部分は共通するが、もっと落ち着いた雰囲気の女の子だった。ここには時代精神の違いが明確に表れているとは思う。現代はすでに「女の子はおしとやかであるべき」という精神性ではない。

駅でマシュウとの初対面で小走りで駆け寄っていくアン、グイグイとマシュウに近づいて(魚眼レンズを使用しているカット)マシンガンのように喋り倒すアン、馬車に喜び勇んで飛び跳ねながら駆けていくアン、元気いっぱいな描写だ。

時代を変えてリメイクされることの醍醐味の一つは(批判を受けるポイントでもあるが)、時代精神がどう反映されているかを見つけること。かつての価値観で編まれた物語を別の価値観を導入した時、どういう化学反応が出るのか、それはどんな味なのかを見つめることで、見えてくるものもある。

マシュウと馬車に乗っている道中、サクラの散る花びらを目一杯手を伸ばして掴もうとするアンは、能動的に何かを掴み取る、アクティブな女の子なのだ。しかも、花びらを3枚くらい掴んでいる。この自らつかみに行く能動性が今回の『アン・シャーリー』の特徴ではないか。

このシーン、高畑版では両手を身体の前で組んで、見とれながら空想にふけるという描写で受動的といえば受動的だ。だから悪いということではなく、時代精神の表れ方の違いだ。

どっちも想像力の優れた女の子という点では、アンの本質を外すものではないと今のところは思う。

あと、第一話の絵コンテに関しては、クローズアップが多いなと思った。空間をもう少し楽しみたいという気持ちもあるけど、普通に第一話は楽しんだ。
 
ちなみにマーティン・シーンがマシュウ役の実写映画版を見たことあるが、良いロケーションで撮影していて風景が見応えがある。しかし、桜はないのが日本人としては寂しいんだよね。国が違えば風景に対する感受性も違うし、カナダは桜が一般的じゃないだろうし。

©︎アン・シャーリー製作委員会

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