2025年春、テレビ報道の本質を問う2本のドラマが並び立った。日本テレビ系『恋は闇』とTBS日曜劇場『キャスター』。いずれも報道番組を舞台にしながら、ミステリーの構造を通じて現代メディアの矛盾と闇を描き出す意欲作である。恋愛サスペンスと社会派ドラマ、ジャンルは異なるようでいて、両者は報道における「真実」と「演出」、「正義」と「暴力」の境界線を巧みに揺さぶる。以下、両作を比較しつつ、その問いかけの鋭さを探ってみたい。
「報道とは何か」を問う2つの現場
『恋は闇』では、情報番組の若手ディレクター・筒井万琴が主人公である。彼女は報道部志望でありながら、視聴率重視の情報番組の現場に配属され、日々、視聴者の欲望と報道倫理の間で揺れている。一方『キャスター』の主人公は、報道番組『ニュースゲート』に赴任した“異端のキャスター”進藤壮一。彼は公共放送出身の硬派なジャーナリストであり、報道現場の慣習や忖度に真っ向から異を唱える存在だ。
両者の舞台は異なるが、共通するのは、テレビ報道という装置の中で働く人間の葛藤である。『恋は闇』は被害者報道の在り方をめぐる繊細な描写で視聴者に問いを突きつけ、『キャスター』は報じるべき真実とその影響力について、鋭いメタ視点を導入している。どちらも「報道とは何か」という根源的な問いを、現場のディレクターやキャスターの視点から浮かび上がらせる。
ミステリーとしての構造と手法
『恋は闇』は、連続殺人事件を追う物語でありながら、報道関係者の心理戦がそのままミステリーのトリガーとなっている。志尊淳演じる設楽浩暉は、美貌と嘘を武器に情報を引き出す記者であり、彼の言葉や行動の真偽が常に視聴者の判断を揺さぶる。特に、彼が語る「過去の誘拐体験」が嘘だったと判明する場面は、視聴者に“真実とは何か”という不安を植え付ける象徴的なシーンである。
一方の『キャスター』も、進藤の報道内容が果たして真実かどうかという疑念を物語全体に張り巡らせている。初回放送では、官房長官のスキャンダルを追及するかに見えて、それが実は“リハーサル”だったという展開が仕掛けられ、視聴者の予測を巧みに裏切る。さらに、進藤の選択が「報じるべき真実」なのか「報じないべき配慮」なのかを揺れ動かせることで、物語は一種の心理ミステリーとして機能している。
つまり、両作とも“報道そのもの”がミステリーの主題となっており、事件やスキャンダル以上に、「誰が何を、なぜ、どう伝えるのか」という行為そのものが物語を動かす推進力となっている点が共通している。
「真実」は誰のものか、どこにあるのか
『恋は闇』において、設楽は「報道に裁く力はないが、世間の関心をつなぎとめ、忘れさせない役割がある」と語る。これは報道が真実の担保者ではなく、消費される物語の編集者にすぎないことを示唆している。一方、万琴はその在り方に疑問を持ちながら、被害者に寄り添おうと試みるが、結局は「視聴率」の重圧に抗しきれずにいる。
一方の『キャスター』では、進藤が「報道すべき情報を、あえて報じない」ことを選ぶ。これは一見すると倫理的判断に見えるが、その根拠は彼自身の主観に過ぎず、視聴者にはその正当性が示されない。結局、進藤の行動が“正しい”のかどうかは視聴者の判断に委ねられる構造となっており、ここに“キャスターこそが最も嘘をつく”という作品全体の皮肉が込められている。
両作とも、「報道される真実」は必ずしも“本当の真実”ではなく、取材者や番組の都合によって加工された“演出された真実”であることを明示している。視聴者に課されるのは、その情報を“信じる”か“疑う”かの主体的な選択である。
視聴者の“見る責任”を問う
『恋は闇』では、被害者の私生活が次々と晒される様子が現実の報道被害を彷彿とさせるが、その裏で「それを求める視聴者」の存在も暗に描かれている。報道に正義を求める一方で、刺激的な映像や感情的なナレーションを求めてしまう私たち自身の姿が、筒井万琴の葛藤に重なる構造だ。
『キャスター』では、「キャスターの言葉を信じるかどうか」という選択が、そのまま視聴者自身のメディアリテラシーを試す仕掛けとなっている。進藤の報道姿勢を支持するか、それを危うい独善と見るか。作品はその是非を明言しないことで、視聴者に“判断する責任”を返す。
テレビ報道ドラマの現在形
『恋は闇』と『キャスター』は、ジャンルもアプローチも異なるが、いずれも“報道”という営みを通じて、「真実」「演出」「倫理」というテーマを鋭く突いている。そして何より、視聴者に対して「あなたはそれをどう受け止めるのか」と問いを突きつける点で共通している。
ドラマというフィクションの形をとりながら、私たちが日々接する“現実の報道”に対する深い批評性を持つ両作は、テレビメディアが抱える自己矛盾を浮かび上がらせる鏡のような存在である。
両作がこれからどのように物語を展開させ、「報道の正義」を問うていくのか──この春、最も見逃せないのは、ニュース番組の中に仕掛けられた“ミステリー”そのものかもしれない。