障害者への接し方というのはどうあるべきか、というのはよくTwitterでも乙武さんなどが議論をしていたりします。
おりしもこの映画が公開された時は、パラリンピックが開催されていて、みなさんも自分が障害者へどんな眼差しを向けているかを自問する機会もあったかと思います。
乙武さんのパラリンピクに対する考えはこのTogetterにまとめられていますが、乙武さんの基本的なスタンスは、「障害者として」高い評価を得るということには複雑な思いがあり、本当の意味での平等やバリアフリーという概念は障害者なのに頑張っている、という感性を乗り越えたところにあるということです。
このツイートはストレートにその考えが反映されていますね。
2.幼い頃から、みんなと同じことをしただけでほめられた。歩く、食べる、字を書く――それだけで「すごいね」と称賛された。「障害者だから、どうせできない」という前提があるのだろう。だから、驚かれ、ほめられるのだ。そう考えると、ほめられていながら、どこか下に見られているような気がした。
— 乙武 洋匡 (@h_ototake) September 2, 2012
パラリンピック期間中は、僕のフェイスブックのフィードでも多くの「意識の高い」方々が、障害に負けず高みに上り詰めた選手達に対する賞賛を目にしました。そういう投稿にやたらといいね!がつくんですねえ、ホント。
そんなのを冷めた目で見つつも、実際問題それが僕ら健常者の通常の感覚であることも否定できず、そういう意味では乙武さんの葛藤をなかなか心から共有するこは難しいよなあ、などと思います。
この映画「最強のふたり」は半身不随という障害を題材にした映画で、やはり本当の意味でのバリアフリーとは何かを考えさせてくれるような作品でした。
いや、これは適切な言い方じゃないかもしれません。この題材にも関わらずそんな難しいことを意識させないような作りになっています。
主人公は2人、大富豪で首から下の感覚が全くないフィリップ。スラム街出身の無職の黒人青年ドリス。労災保険目当てで就職活動をしているというアリバイ欲しさに面接を受けに来たドリスを、なぜかフィリップが気に入り、彼を世話係として雇うところから物語がスタートします。
このドリスという男。相手が障害者であろうとだれであろうとほとんど態度を変えずに接するんですね。フィリップは首以外は動かないので、当然電話を差し出されても受け取ることができないのですが、ドリスはそんなことも忘れて電話を手渡ししようとしたり。。。
しかし、フィリップがドリスを気に入ったのは、まさにそういう点。彼はフィリップを全く「障害者」扱いしていないわけです。
ともすれば横柄でヒドい奴になりそうなキャラクターですが、このドリスを演じるオマール・シーの巧みな芝居もあってか、全く悪びれた感じがしないのですね。
通常の人間の思考回路だとこうなると思うんですが、
障害を持った人間に出会う → 障害を持ってるのに偉いなあ、応援しなきゃ → いや、障害者として接するのではなく一人の人間として接しなきゃ → 普通に接する
でもドリスの場合は明らかにこういう思考回路を経てないんですね。ドリスはこんな感じ。
障害を持った人間に出会う → 普通に接する
ドリスは、マリファナだのなんだのと悪い遊びをたくさん知っています。これをフィリップにも教えてやるんですね。女遊びも大好きなドリスは決して道徳的な存在でもなんでもない。今まで縁のなかったであろう、不道徳な遊びをしている時のフィリップはやたらと幸せそうなんですね。生きる喜びに溢れている。
障害に負けずに頑張っている人を「道徳的」な存在に押しとどめようとする風潮って現実の社会にはあるように思いますが、それに対するアンチテーゼにも見えます。
総じてこの映画は、障害者映画になっていないです。普通の良質な、ユーモアに溢れたヒューマンドラマなのです。
そこがいい。だから、本当の意味でのバリアフリーとは何か、なんて声高に訴えたりしないので見ている側も難しいtことを考えたりはしない。
そして、映画館を出た後に実生活でその感覚を発揮できるかどうかの状況に直面した時、初めてこの映画のメッセージが立ち上がってきそうな気がします。
乙武さんのような不謹慎ギャグも随所に盛り込み(笑)、見ている間中決して飽きることのない良作です。
Atria
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