4/15より公開されるドキュメンタリー映画「メットガラ ドレスをまとった美術館」は、2つの点で興味深い映画だ。
まず一点はファッションはアートなのかという問い。この映画はニューヨークのメトロポリタン美術館で毎年開催されるファッションイベント「メットガラ」の舞台裏を追いかけるものだ。ファッションアイテムを収蔵している美術館というのは相当に珍しいらしい。企画を主導するのはヴォーグの名物編集長のアナ・ウィンター。映画ファン向けには「プラダを着た悪魔」のモデルとされる人物といえばわかりやすいだろうか。
「メットガラ」は美術館の運営費の寄付を募るために開催している。あれだけ実績と名声のある美術館でも運営費を賄うのには四苦八苦しているようだ。映画はそうした現実的な理由と、美術館の果たす役割、そしてファッションはアート作品として成立するのかという問いを観客に投げかける。
そしてもう一つの注目すべきポイントは、人種へのステレオタイプと表現のあり方についてだ。豪華なファッションイベントでそんな複雑な問いが?と思われるかもしれない。だが2015年に開催されたメットガラのテーマは「鏡の中の中国」だった。
欧米の多くの有名デザイナーたちは、映画などのメディアを通じて中国のオリエンティックな魅力に触れ、インスピレーションを経て服をデザインしてきた。だが、映画などのメディアは中国の本当の姿を描いてきただろうか。デザイナーたちが触発されたのは、西洋にはない感性がそこにあるからだが、それを提供した映画はある種の色眼鏡で中国を描き出してもいた。そこには偏見も含まれていたかもしれない。
このイベントは、映画などのメディアが作ってきた中国の姿(鏡の中の中国)と、それに影響を受けたデザイナーたちの作品をキュレーティングすることで、単なるファンションの祭典にとどまらない深い視座を与えてくれる。
この映画の監督、アンドリュー・ロッシ氏にインタビューし、本作の狙いについて語ってもらった。
こうしたイベントの開催がステレオタイプを打破する第一歩になる
――映画には2つの大きな要素があったと思います。ファッションはアートであるかという問いと、中国に対するオリエンタリズムやステレオタイプをどう考えるかという問いと。どちらに興味があってこの映画の企画をされたのでしょうか。
アンドリュー・ロッシ監督(以下ロッシ):まず私はメトロ美術館の舞台裏を見たいと思っていたんです。ギャラリーをどう展示するのか、どのような基準で決めていくのかという作業にも興味があったんです。実際にキュレーターがどのようなストーリーテリングで作品を展示し、物語を綴っていくのかというのは私にとって興味深かったんです。
オリエンタリズムに関することは、今回そのストーリーテリングに含まれる部分でした。
私としては、オリエンタリズムを紐解くような作品になるとは当初は思っていませんでした。面白かったのは、美術館のキュレーター、アンドリュー・ボルトンがそういった物の見方を超えて理解しようとしていたところです。つまりデザイナーたち自身が人種差別的とも言えるようなもの、たとえば映画のオリエンタリズム的な表現などに影響されて作品に反映させていたとしても、それを超えたところで美術的、学術的な視点から作品の価値を読み解いて、作品自体をより昇華させようとしていたんです。
――実際に、2015年のメットガラのテーマは真実の中国ではなく、「鏡の中の中国」というテーマでした。これは西洋が中国をどのように描いてきたのかを紐解こうとしていたのかと思います。その中にはステレオタイプなものもあれば、美しい表現もあったということですね。
多様性が重要だと叫ばれる世の中ですが、監督は今後こういったオリエンタリズムやステレオタイプとどのように向き合っていけばいいとお考えでしょうか。
ロッシ:まさにあなたが指摘している通り、「鏡の中」と言っているのはすなわち、何かの媒介を通した中国であることを指していて、中国のリアルを描いたものではないんです。特にデザイナーたちは映画からインスピレーションを多く得ていたのでガラス(=レンズ)としたんでしょうね。
今のご質問には、まさにこの映画に描かれるようなイベントがその答えになっているのではないでしょうか。こうしたイベントは、偏見やステレオタイプについて皆が議論しあうための、素晴らしい第一歩になると思うんです。
金銭的には美術館も苦労してはいるけれども、多くの人が足を運ぶのは間違いないわけで、アートとともにいろんなアイデアや考察、パワフルなメッセージを届ける場として機能していると思います。
――キュレーターのアンドリューたちと中国を繋げる役割として、映画監督のウォン・カーウァイが非常に重要な役割を果たしていました。彼の考えや感性についてどんな風に感じましたか。
ロッシ:私にとってもウォン・カーウァイはこの映画のハイライトです。中でも感服したのは、彼の軽妙なタッチですね。例えばアンドリューに中国の文化的にデリケートな部分を理解してもらうために、すごく柔らかいタッチで説明していました。
実は車の中でカメラを回している時に、ウォン・カーウァイとアンドリューが一緒にいたシーンで鳥肌が立ったシーンがありました。作品の中にもありますが、ウォン・カーウァイの「見すぎることは何も見ないことに等しい」という言葉です。キュレーターであれ物書きであれ、クリエイティブな仕事に就いている人であれば、ハッとさせられる言葉ですよね。
――ステレオタイプについてもう一つ質問です。この映画に出てくるアナ・ウィンターも強いパブリックイメージを持っている人ですが、実際の彼女はどんな人物ですか。
ロッシ:私は人物のひとつの側面を描くのではなく、あるがままの彼女を捉えて観客に判断を委ねようというスタンスで映画を作りました。なのでこの映画を見て、感じ取っていただける通りの人物ですよ。判断力のあるリーダーであり、スタッフへの指示はとてもクリアで的確です。メディアでよく目にするような、女王様のような人ではありません。
「プラダを着た悪魔」ではは、サディスティックなファッション雑誌の編集長として描かれていましたが、私が興味深かったのは、キュレーターのアンドリューに対して、彼女は完全にサポート役に徹していた点です。
彼女にもたくさんの側面があります。例えば家で娘さんと一緒の時はとても柔らかな、母性的な側面も感じられましたし、ミュージアムでの朝の重役会議では、服飾部門のためになると信じれば、きっちりと自分の意見を表明します。
バズ・ラーマンも映画の中で言っていますが、彼女は自分の持つイメージ、クリシェをよくわかっているので、時に目的達成のためにはそれを敢えて利用することもあるんです。