リアルサウンド映画部に『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』について書きました。
実写とアニメの境を見直す杉本穂高の連載開始 第1回は『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』評|Real Sound|リアルサウンド 映画部
テックでも映画とテクノロジーをテーマに月イチで連載していますが、映画部でも連載をやることになりました。アニメ!アニメ!の敵役についての連載と合わせて3つ、どれもできるだけ長く続くようにがんばります。
今回の連載の主旨は上の記事の序文(1〜2ページ目)を読んで頂くとして、随分アクロバティックな主旨のテーマを設定して理由を書いておきたいと思います。
アニメーションというものを映画史の中でどう捉えるのか。このことが未だに宙ぶらりんになっているような気がしていました。アニメーションも映画の本流の中にちゃんと位置づけた方がいいんじゃないか、世界の映画マーケットの中で今後もアニメーションの存在感はどんどん高まることでしょう。そのうち、ブロックバスターの世界のみならず。アート映画マーケットにおいても、今度アニメーションの存在感は今後10年で相当に高まってくると思います。アニメーションというものを、映像文化の特殊ないちジャンルとして捉えるのではなく、きちんと本流の中に位置づけることができないものかという考えがずっとありました。
むしろ、これからの映像カルチャーの本流は実写よりもアニメーションになるのではと漠然と思っているのですが、制作の現場においては、実写の現場においてもアニメーション的想像力は技術的にも感性的にも相当に入り込んでいるのに、映画をめぐる言説はそれに乗り切れていないのではないか、とずっと感じていました。
この考えには押井守監督の「デジタルの地平で、全ての映画はアニメになる」という言葉の影響もあると思います。押井監督は映画の「作られ方」について、デジタルのプラットフォームにおいて、実写とアニメは素材のテイストの違いでしかないんだという意味で言ったのだと思いますが、作られ方が変われば、作り手の感性も、観客の感性も変容していくはずです。実際、相当に変容が起きているんだと思います。その変容を捉える作業として、アニメーション作品をアニメーションの文脈ではなく、実写映画の文脈で、実写映画をアニメーションの文脈で語って、最終的に両者を融合させられないだろうかと思ってこんなことを提案しました。
これまで実写とアニメーションを分けていたものは何かというと、運動の記録か、運動の創造かの違いです。土居伸彰さんの著作『個人的なハーモニー』で、アンドレイ・タルコフスキーが「映画は時間の彫刻だ」と言い、ユーリー・ノルシュテインは「アニメーションは時間を創造する」と対比的に紹介しています。彫刻というのは、すでに存在している素材を削って何かの形を作っていくものですが、創造は白紙のゼロの状態から生み出すということ。しかしながら、今日実写映画として流通している作品は、一部に彫刻のように最初から存在しているものを使っているが、一方でゼロからの創造品も大量に巻き込んでいるわけですね。3DCGのモーションキャプチャという技術や、「スキャナー・ダークリー」とか『花とアリス 殺人事件』のようなロトスコープは純粋なゼロからの運動の創造ではないかもしれない。昔から、それらの手法はアニメーションなのか、という議論はあったわけですが。
ただ、自由な創造性というアニメーションの特徴の一部は確実に実写と呼ばれる作品にも入り込んできていて、実写の持っていた再現性や記録性も一部のアニメーションは持ちうるわけですよね、現在は。
むしろ、絵空事であるアニメーションであるからこそ、作る時には実写以上に迫真性やリアリティを意識しないといけない。技術がそれに追いついてきた時、実写の映像よりもリアルだと感じ取れるものが生まれてしまったりする。富野由悠季監督が自著『映像の原則』で、「TVアニメでは、自由に動かせないために、動きの不足をいかに映像的機能を利用して映画らしくするか、というテーマを追求してきましたから、実写以上に映像的な作品が出たりするのです」と書いています。
そう感じる瞬間が最近はすごく多いんです。例えば、福田雄一監督の実写映画と、京都アニメーションのアニメではどっちがリアリティが高いだろうと考えると、京アニじゃないのかなと思えるわけです。これは反対に実写がアニメーションを上回るファンタジー性を獲得可能であることの証左かもしれません。
まあ、そんなようなことを考えて、上の記事を書きました。その第一弾として京都アニメーションの『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』を取り上げさせてもらいました。これは、編集部からの指定でしたが、やるならここからだろうなと僕も思っていました。
『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』をメロドラマとして取り上げることにしたのは、メロドラマと映画はその黎明期から密接な関係があったからです。サイレント映画時代、映画は声を持っていなかった分、音楽の重要性が高かったわけですが、音楽とともに語る物語がメロドラマです。黎明期の映画は必然的にメロドラマだったということですね。その伝統的な映画の歴史に、京都アニメーションを位置づけてみたかった。日本のアニメは実写映画的迫真性を追求し続けて発展してきましたが、今その最前線にいるのが京都アニメーションだと思います。このスタジオの作る映像には映画の歴史が宿っていると僕にはとても強く思えたのです。単純に、メロドラマ的過剰さと暗喩に満ちた作品だったというのもありますけど。山田尚子監督の『リズと青い鳥』は、逆にブレッソン的なアンチ・メロドラマだなーと思えます。
まあ、なんか難しいことを考えたつもりになっていますけど、アニメーションの存在感が興行的にも芸術としての評価もどんどん高まっている昨今、実写の方がアニメーションより上、みたいな先入観はもう持っていたら映画ライターやってらんないと思うんですね。映画ライターならアニメーション知ってて当然、知らないと映画ライター務まらない時代が来るんだと思います。僕的にはもうそういう時代だと思いますが。
連載がいつまで続くのかわかりませんが、末永く続けて新しい映画の見方が提示できるといいなと思っています。ご愛読よろしくお願いいたします。
以下、本記事の構成とメモです。
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記事の目標:
・ヴァイオレット・エヴァーガーデンのどんな点がメロドラマ的で、どんな点が女性映画であるのかをしっかりと明らかにする。
・その上で「古臭い」、言い換えると「クラシカル」なメロドラマの香りを携えているのはなぜなのか。その上で何を新しく提示しているのかを明らかにする。
形式と主題の相関性を見つけねばならない。この映画がメロドラマの形式である必然性を見つける。この主題がどうしてメロドラマで描かれた方がよいのかを明らかにできなくてはならない。
構成案1
メロドラマというジャンルがある。その特徴と(一般的な)社会的受容
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70年代、メロドラマの再評価を語る
Body1 ハリウッド映画のメロドラマはいかに論じられてきたか
Body2 ヴァイオレット・エヴァーガーデンはいかにメロドラマ的で、どんな抑圧を描いているか、
作品のメロドラマ的特徴を挙げる。過剰な部分と抑圧された部分、女性が主体を取り戻す過程としてのメロドラマとして取り上げる
構成案2
Intro
『ヴァイオレット・エヴァ―ガーデン』はメロドラマである。
それは安っぽいお涙頂戴という巷間に言われる意味ではない。
涙は流すとはどういうことか、メロドラマとは価値の転覆にあり、抑圧を解放し、表象不可能なものを表象してみせる。
Body1メロドラマとは何か
メロドラマをしっかり説明したほうがいい
劇的さ、大げささがなぜ必要かと言う点、もともと音楽つきのドラマという意味、サイレントから始まった映画はメロドラマ的形式をふんだんに必要とし、50年代にハリウッドがそのスタイルを確立した、頂点はダグラス・サーク。
何を描くのか、涙はなぜ必要とされるのか。メロドラマというジャンルはやすっぽい悲劇ではなく、価値を転覆させる力強いジャンルであるということ
Body2 ヴァイオレット・エヴァ―ガーデンがメロドラマたるゆえん
あらゆる点でその特徴を持っている。主人公のあり方、劇的な展開、内面を表象のあらゆる要素で語りうる。クローズアップの美しさ。そもそもタイトルが過剰なまでに美しい
物語の要素として。戦争と生き別れ、届かない手紙、風に舞う手紙(サーク的)、観客が知っていることと知らないこと。吉田玲子の抜群の構成力にも触れる必要がある。観客と登場人物の知っていることの差異の見事さ。電話という機器の起こす奇跡。
カメラ的演出もここにしっかりと記述する
マーヴィン・ルロイの『哀愁』生き別れる二人。実は生きている二人。
ダグラス・サーク的修辞法を見出す。
受動的なヒロインがアクションを必要とされるとき。ペーソスとアクション、メロドラマ映画を学ぶp194
ファスビンダーの言葉通りの作品ではないか。
涙はいかに力となるのか。メロドラマ映画を学ぶから引用できるか。ありえないことは希望を叶える願いが結実である。
本作は何を転覆したのか。「外伝」には結婚だけが女の幸せではないという、アメリカンホームドラマのメロドラマの定説を覆すような要素があった。それはサークがメロドラマの形式を利用して批判しつづけたものそのものでもある。
**本作は現代において何を覆そうというのか。**←これがしっかり書けないといけない。
映像のような視覚的表現が突き詰めたメロドラマの美学が詰まっている。『ヴァイオレット・エヴァ―ガーデン』は映画の本流を担っているのだ。
構成案3
Intro
メロドラマと本作をここで接続する。・・・なぜメロドラマだと思うのか
なぜメロドラマなのかをできるだけ美しく語る必要がある
↓
世界と自分をいかに肯定するのか。この優しくない現実を向こうに回して、いかに本作の過剰さが人の解放なのか。
導入は端的であるべきだ。この記事が何を言おうというのか、何を説明しようというのかを一行で表すべきだ。
Body2メロドラマとは何か
世間のイメージ;安っぽいお涙頂戴ものというイメージがつきまとう。それは間違いだ。大げさで過剰であることは間違いないが、メロドラマの本質とは「やすっぽさ」ではない。
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ここでズバッとと自分の言葉でメロドラマの定義を語る。端的に、明瞭に、できることなら美しく。
本当のメロドラマの定義とは
引用が必要。
・音楽のあるドラマ
メロドラマという言葉は本来、音楽を伴うドラマという意味であった。<中略>音楽は19世紀の演劇では永続的な役割を果たし、その後メロドラマを引き継ぎ、それに取って代わった今日の形態である映画では、主要な要素となった。P37 メロドラマ的想像力
・神なき時代の道徳についての物語だった。
メロドラマは、巷間でよくいわれるように、荒唐無稽な感傷的見せ物でもなければ、俗悪は悲劇の紛いものでもない。それは超越的な運命をめぐる人間の挫折を描く悲劇とは、そもそも完璧に対立する演劇的概念であって、神の不在と偶然を前提として、観客を感情的高揚へと導くことを旨としている。ファスビンダー (エートル叢書) P185
↓
メロドラマの特徴。ここにも引用が必要
・大げさであること、泣ける、感情についての物語であること
『メロドラマ的想像力』から
自己目的化された誇張や感動、強調のドラマツルギー、過剰、興奮、そして「行動化」はー精神分析的な意味でー倫理的な要請を別にすれば、メロドラマの本質かもしれないと、わたしはすでに認めている。しかしながらなお言葉を重ねていきたいのは、重要なメロドラマを通して過剰と誇張表現のドラマツルギーこそが、極めて重要な対立や選択と一致し、それを喚起するということを、確信できたことである。P5
メロドラマはリアリズムに対し、いつも斜に構える。-それは、リアリズムを超えた表現を求めて緊張している。メロドラマ的想像力P5
『メロドラマ映画を学ぶ』から
メロドラマは、この言葉をどのように理解するにせよ、悲しみと同一化による涙から嘲りの笑いに至るまで、観客の強い情動を刺激する力をつねに持っている。p18
メロドラマはアクションや能動的な主人公についての映画ではなく、むしろ主として感情にかんする映画だということである。おおまかに言えば、アメリカ映画では能動的なヒーローは西部劇の主人公になるのであり、そして、受動的ないし無力はヒロイン/ヒーローはメロドラマとして知られるようになったものの主人公になる。<中略>彼らはものの見事に抑圧された人物なのである。p57
リアリズムにおいて収容不能な過剰を発生させる。p58
『映画のメロドラマ的想像力』から
過剰なまでに画面が饒舌であることがメロドラマの特徴p12
かれらの惨状、かれらの苦境は画面の中でこれ以上ないというくらいに饒舌に描き出されます。それが画面の隠喩的、修辞的側面として展開されます。<中略>そして役者たちはせいいっぱい大げさな演技をしてくれますp14
メロドラマとは過剰なる感情のための過剰なる形式p91
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それは50年代までのハリウッド黄金時代に花開き、世界に広がった。
・ダグラス・サークなど。
・なぜ映画でメロドラマは広がったか。
このメロドラマ的想像力が、ヨーロッパに限定されたものであることをやめ、ハリウッド映画を通して全世界に波及し、20世紀に豊かな果実をもたらした。p321 メロドラマ的想像力(あとがき)
映画とメロドラマの親近感。p323メロドラマ的想像力(あとがき)
映画が元々言葉を持たないサイレント映画だったからこそ、メロドラマ的な要素を必要とした
↓
当初は、安っぽいものだと思われていたが、70年代に入り、再評価された。
その理由は?
・社会にある抑圧を描いていた
メロドラマは権力の極端な不均衡を創造的に破壊するp78 映画のメロドラマ的想像力
その時代の高承にして制度的なる芸術が決して接近できない人間の実存を取り上げる。ある条件さえ整えば十分に体制転覆的な力を持ちうる。p209 映画と表象不可能性
・様々な議論がありながら、女性をとにもかくにも描き、主たる観客に女性を想定していたこと。
メロドラマはアクションや能動的な主人公についての映画ではなく、むしろ主として感情にかんする映画だということである。おおまかに言えば、アメリカ映画では能動的なヒーローは西部劇の主人公になるのであり、そして、受動的ないし無力はヒロイン/ヒーローはメロドラマとして知られるようになったものの主人公になる。<中略>彼らはものの見事に抑圧された人物なのである。P57メロドラマ映画を学ぶ
女性を主人公や語り手として、<中略>みずから欲望と意思の主体として行動する。p328 メロドラマ映画を学ぶ
・社会的弱者の隠された感情、抑圧された状況をこそ、大げさに暗喩的に語ることで弱者の声を代弁していた。
映画学と映画批評、その歴史的展望――加藤幹郎インタヴュー
本来、弱者の吐く弱音には社会的ミュートがかけられていて誰の耳にも届かないということです。それが同時多発テロのようなメロドラマにおいて、はじめて第三者の耳に届くようになるということです。
↓
端的にメロドラマの素晴らしさを言い表す引用で締める。
トッド・ヘインズのメロドラマについての発言「決してリアリスティックでないけれども、そこには映画の感情的な真実についてのほとんど不思議なほど的確な何かがある」p160メロドラマ映画を学ぶ
メロドラマにおいては、涙が力の源泉であるかもしれないということだった。というのも、その涙は欲望が満たされるという希望を承認するからである。涙はほとんど未来への投資であり、過ぎ去ったものや元に戻らないものに対する思慕ではないと解釈した。対して無力さの所産という考えもあった。p193メロドラマ映画を学ぶ
Body2ヴァイオレット・エヴァ―ガーデンがいかにメロドラマ的か
色彩、フレーミング、アップがロングか、ミディアムか、舞台、照明、鏡とフレーム内フレーム、観客が知っていることと登場人物の知っていることの不一致点、小道具、タイプライターと電話、ぬいぐるみ、風に乗る手紙、衣装、切手、轍
文字通り、言葉を知らない、愛してるの意味すら知らない女性として描かれる。愛を知り、今度は愛ゆえに、愛する人が帰らぬ人であるために新たな抑圧に見舞われる。
10話、アンのエピソード、、、ヴァイオレットは知っているがアンは知らないことがある。この不一致のせいでヴァイオレットは涙を流す。・・・・この映画と観客の関係性をそのまま転用している。
映画作品として、実写映画のメロドラマが語られてきたように本作を語ればよい。
ファーストシーン、窓の外を見る女性、明るい外と薄暗い屋内の対比。そこに家族の不和を告げるようなやり取り。鮮やかな緑と薄暗い照明と衣装の対比される。
テラスの窓越しに映る、手紙を読む女性、フレーム内フレームで自由になれていない人。女性はいつの時代は自由を享受しきれない。しかし、そこに(屋内なのに)強い風が吹く。人は自由ではないが、手紙は風にのって自由に飛び立つ。
風に舞う手紙という暗喩と海に落ちていく手紙
抑圧は何か。。。。感情を表出することのない表情、だまって夜遅くまで仕事するそのタイプライターの淀みない音。彼女は感情を表出しないが、変わりに義手の調子は悪くなる。タイプライターを打つ音がぎこちなく遅くなる。少佐への手紙を書いている時だ。そして、カメラは窓の外に移る時、窓の枠が十字架のようにヴァイオレットの顔にかぶさる。彼女は何かに張り付けられているのだ。生きているかもわからない男の帰りを待つ女性である。そこに囚われている女性の物語として描かれている。
マーヴィン・ルロイの「哀愁」は戦争に行った男を死んだと思った女性のメロドラマだった。抑圧的な社会で一人帰らぬ男性を待つ女、しかし、男は生きていた。そして生きていたことを知るのがおそすぎたためにすれ違いが起こり、観客の涙を誘う。
メロドラマのモードについて。観客は何を知らされているか・・・・観客は少佐が生きていることをヴァイオレットよりも先に知らされる。
・メロドラマの物語的論理の鍵は、リアリズムや自然主義ではなく、むしろ観客と登場人物の間に知識と視点の不一致を作りだそうとする要求だった。この食い違いが最終的には、涙を流すことで絶頂に達するペーソスを」生み出す。「遭遇が遅すぎるにせよ、なんとか間に合うにせよ、そこに遅延と、間に合わないかもしれないという可能性があれば、涙はこみあげてくるのだ」p167
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・少佐の死を知るのが遅いという観客とのタイミングのずれ、生きていることを知るタイミング、少年の死に間に合わないこと(を電話が覆す奇跡)
・遭遇がもう少し早ければ防げたが、あるいは、エリスの死に間に合わないというペーソスが発生する。
登場人物は心理的に構築されておらず、内省的であるよりはむしろ、行為、動作、身振り、舞台装置、照明、編集を通じて自らの内的存在を伝達する。その結果、登場人物が持ちえない知識を観客が所有することになる。p167
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・この点、小説版は映像版ほど的確に整理されていない。脚本吉田玲子の卓越した構成は見事という他ない。
それはTV版10話で、ヴァイオレットが初めて流す涙を考えるとわかりやすい。ヴァイオレット’はアンの知らない情報を持っている。だから、彼女はアンのこれからの運命を思って涙を流せる。そのことが大きな成長へとつながっている。
・10話のアンとヴァイオレットの関係は、そのまま観客と本作の関係である。私たちはギルベルトが生きていることを知っている、そして巧みな映像の組み立て方と物語の構成でヴァイオレットがエリスの死に間に合わないことすら知っているだろう(移動に何日もかけていた)。
・それを打ち破る奇跡を起こすのが電話という新しいテクノロジーである。
ホッジンズがギルベルトを訪れるシーン。暗い部屋でギルベルトは決してホッチンズの方(更にその先にはヴァイオレットがいるはずの)を見ない。ホッチンズは開けたドアからは外の光が差し込むが、部屋から出ることはない。いつの間にかいなくなっている。カメラの前では決して外に出るところが移されない。彼もまた、何かに抑圧されている。
ギルベルトの自宅を訪れるヴァイオレット。雨が降る。雨はわかりやすい暗喩だろう。さらにギルベルトはやはりドア越しにもかかわらず背中を向けたままだ。動けないギルベルトに変わり炎が激しく揺らめいている。
島には色彩が少ない。建物はなにもかもくすんだ色をしている。唯一鮮やかな色をしているのはぶどうだ。ギルベルトが作ったぶどうを丘の上に送り出すリフト。リフトに乗って豊かなぶどうが運ばれていく。その代わりに降りてくるのは言葉の果実と言えばよいか、ヴァイオレットの感謝を綴った手紙である。
走り出すギルベルトと日没の光が照らす・最も激情があふれるシーンに京都アニメーションはマジックアワーの時間を選んだ。撮影するのに一日で最も美しい時間である。
そして、お互いが抑圧から開放されて愛を伝えた時には、よるとなり、淡い月が二人を照らす。流暢な言葉で手紙をつづるヴァイオレットが完全に言葉を失う代わりに月が光るのだ。過剰に饒舌なメロドラマにおいて、最も劇的な瞬間が言葉が出てこない時なのだ。(何か引用)ここで主題歌も流れる。その歌詞は明らかに登場人物たちの感情を雄弁に代弁してくれている。
「私も泣きそうなんだ」というギルベルトのセリフ。・・・男が泣くことへの強固なタブーを打ち破ることを祝福している。
メロドラマと女性映画の同一視はリアリズムを男性性と結びつけた結果としての「遡及的な分類」であったこと、そして感情という領域がいかに歴史的に女性に割り当てられてきたか、それに対してリアリズムがいかに男性の自制心、すなわち公共の場で男性が泣くことへの文化的な禁忌と関連づけられてきたかを指摘したp182
泣くことができれば、私たちは自由になれる。涙を流すことができ、ヴァイオレットを抱きしめたギルベルトの手から離れた手紙は、風にのって自由に空を飛んでいく。人が何に縛られていようとも、思いだけは縛られないといわんばかりに風が手紙を運んでいく。
仕事に戻るというヴァイオレット、誰かの思いをつなぐ手紙を書く、それで救われた人もたくさんいるが、彼女にとってそれは一つの抑圧でもあったのか。
映画が美しく、わざとらしく、演出されきって、仕上げられていればいるほど、映画は自由で解放されるんです P9ファスビンダー (エートル叢書) ビンダー
Concl
廃れてしまったものをも受け入れることができる。メロドラマ映画を学ぶP181
涙は明日への希望である。
メロドラマにおいては、涙が力の源泉であるかもしれないということだった。というのも、その涙は欲望が満たされるという希望を承認するからである。涙はほとんど未来への投資であり、過ぎ去ったものや元に戻らないものに対する思慕ではないと解釈した。対して無力さの所産という考えもあった。p193メロドラマ映画を学ぶ
参考書籍
ジョン・マーサー メロドラマ映画を学ぶ ジャンル・スタイル・感性
四方田 犬彦 映画と表象不可能性
母性を読む メロドラマと大衆文化にみる母親像
トーマス・エルセッサー「新」映画理論集成〈1〉岩本憲児編
ピーター・ブルックス メロドラマ的想像力
加藤 幹郎 映画のメロドラマ的想像力
サーク・オン・サーク
斉藤綾子 映画と身体/性(日本映画史叢書 6)
渋谷哲也 ファスビンダー (エートル叢書)
映画の心理学 imago 1992年11月
見ていたリンク
映画学と映画批評、その歴史的展望――加藤幹郎インタヴュー
《世俗の宗教学》 におけるメロドラマ的映画の重要性: Buddhi Prakash
メロドラマ・女性・イデオロギー
映像のフェミニズムについて私の知っ ている2, 3 の事柄
R・W・Fassbinder
メロドラマ批評の歴史 – 葦の中
メロドラマ的想像力とメロドラマ研究会の活動―日本近現代文学とのかかわりから
反転する視座 ヒチコックの『レベッカ』におけるジャンルとジェンダー
CineMagaziNet! no.19 CineMagaziNet! Reader
新しい「メロドラマ」と現代文学の可能性――ピーター・ブルックス『メロドラマ的想像力』読解 – 鈴村智久の研究室
メロドラマ映画と盲目性 ―『ステラ・ダラス』をめぐって 吉澤泰輝:
メロドラマ的想像力とメロドラマ研究会の活動
メロドラマ映画名作選35 – 心揺々として戸惑ひ易く
メロドラマ批評の歴史 – 葦の中
参考に見た映画
ダグラス・サーク:風と共に散る、天はすべて許し給う、悲しみは空の彼方に、愛する時と死する時、心のともしび
ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー:ペトラ・フォン・カントの苦い涙、不安は魂を食い尽くす
マーヴィン・ルロイ:哀愁
マイケル・カーティス:カサブランカ
トッド・ヘインズ:エデンより彼方に、キャロル
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メモ、終わり。
改めてダグラス・サーク作品を見ていたんですけど、めちゃくちゃ面白いですね。過剰の裏に隠れたアイロニーがすごいと70年代に再評価されたわけですが、しかしメロドラマの本流たる過剰さの部分でもやはり人を惹きつける力がすごい。
マーヴィン・ルロイの『哀愁』は記事の中に引用する予定でした。戦争で死んだと思っていた男性が生きているという筋書きが本作と一緒ですね。でも、ただでさえ記事が長くなっていたので削りました。
『風と共に散る』も、本作は風が良い効果出してる作品なので、引用しようかと思っていました。リボンが風に運ばれるシーンとか。でも、しっくりハマらなかったので削りました。
トッド・ヘインズは現代のメロドラマ作家として参考に見ていました。
ファスビンダーは、ダグラス・サークつながりで見ておこうと思ったという感じです。
構成としては、メロドラマであるからにはなんらかの抑圧が提示されているだろう、それから加藤幹郎さんが言う「弱音」がきっとどこかにあるはずだと思い、Body1でそれを探す。そして、Body2で泣けることのメカニズムを一番盛り上がるクライマックスで説明してみて、Body3で泣けることが何で大切なのかを語ってみるという構成にしました。
それと古いメロドラマを思わせる作風であるからには、古いものの良さを語っているはずだと思い、手紙という古いコミュニケーションの良さとそのスタイルをつなげています。「廃れてしまったものをも受け入れることができる」という『メロドラマ映画を学ぶ』という一文が決め手で、古いものの良さ的なことも入れると、本作の美点をより深く堪能できるかも、と思って入れました。
日本のアニメには本作に限らず、メロドラマ的な想像力がかなり豊富に入っていると思っています。副題に「アニメのメロドラマ的想像力」と付けていますが、これをテーマに連載できそうだなとも思いました。これはもちろん、ピーター・ブルックスの『メロドラマ的想像力』と加藤幹郎さんの『映画のメロドラマ的想像力』から来ています。
今回、メロドラマ映画として『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』を語るということをやってみたのですが、僕自身はそんなにメロドラマ詳しいわけじゃありません。どっちかと言うと、アンチメロドラマ的な映画の方をたくさん見てきた気がします。でも、今回メロドラマを学んでみてその美学は、リアリズムでは到達できない領域の真実を描ける可能性があるということを知りました。メロドラマはこれからも勉強続けて、またどこかで取り上げられたらいいなと思います。
(C)暁佳奈・京都アニメーション/ヴァイオレット・エヴァーガーデン製作委員会