SPICEの短期集中連載の2本目を書きました。
【短期集中連載】3つの「シン」から読み解く『シン・エヴァンゲリオン劇場版』 シンジは生きるという「sin(罪)」といかに向き合ったか | SPICE – エンタメ特化型情報メディア スパイス
前回は「親」の視点で本作を読み解きましたが、今回は「sin(罪)」です。キリスト教の「原罪」をキーワードにしています。そして、登場人物たちが自分の罪といかに向き合ったかについて掘り下げる内容にしました。
本作は、「けじめ」とか「落とし前」みたいな言葉がよく出てくるんですが、そこにはやり残したこと、できなかったことに決着をつけるという意味と、やはりやってしまった「罪」に対して向き合うという姿勢が含まれていると思います。「sin」は本作の深い部分で重要なキーワードになっていたものではないかと。
ガンジーの話とか出てきますけど、人類補完計画ってのは原罪を抱えた不完全な人の清算みたいなことですよね。でも、罪を抱えていきるのが人間だよ、というのがこの映画の答えじゃないかと思うんです。
この「sin」と向き合った上でないと最後の「進」に繋げられないなと思って、これが2本目となりました。
以下、原稿作成時のメモと構成案です。
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「sin」エヴァンゲリオン
Thesis
けじめや落とし前と言った言葉がよく使われる作品だった。
誰もが自分の罪の償いのために戦っていた物語だった。
生きることは、罪を犯すこと。「お天道様に顔向けできんこともした」
差別も貧困もない世界・・・・穢れのない世界を作るのが人類補完計画ということ
浄化
Point3つ
キャラクターはいかなる罪を負っているか、シンジ、ゲンドウ、ミサト
人類の罪、、原罪の話、知恵の実を食べた人類が受け鵜ぐ罪とは、生きることで自然と刻印される、それを否定しない
罪は何を産むか。。。ニアサーも悪いことばかりじゃない
Intro
『シン・エヴァンゲリオン劇場版』には、けじめとか落とし前とか言った単語がよく使われる。
25年にわたってシリーズを引っ張り続けたことへの、作り手の正直な気持ちが表れだろう。
それは作り手のレイヤーのみならず、作中の物語のレイヤーでも同様に、キャラクターたちが自らの罪に向き合い贖罪のために「落とし前」をつける物語として展開している。
キャラクターたちにとってに罪のみそぎが描かれていた
そして、その物語を通して示されたのは、逆説的に人として生きることは罪を抱えることだ、という不変の真理にたどり着く。
『シン・エヴァンゲリオン劇場版』を3つの「シン」から読み解く、連載2回目は「sin(罪)」をテーマにする。
Body1 キャラクターたちはいかに自分の罪と向き合ったか
シンジ・・・ニアサーを起こしたこと、カヲルを失ったこと、多くの人を不幸にした罪の意識から。。。第3村で描かれるのはその罪に向き合うようになるシンジの姿
ミサトはシンジの背中を押したこと、シンジに罪を負わせたことの自責の念がある。そのけじめをつけるのが第2のパートの
第3のパートでは、ゲンドウが言う、「子供は私に対する罰だと思った」とい台詞
自分が他者を拒絶し続けてきたことが、今日の災厄を産み、息子に大きな傷を残していたこと。離れたほうがいいと養育を放棄したことの罪をようやく自覚できたことで、電車を降りてゆく。
Body人は存在すること自体に罪がある
原罪について。
南極は、現在を背負った人類のままでは到達できないところと言われる
人類補完計画は、浄化が目的だった。
知恵の実を食べて罪を背負った人間を一つにして完全な純化された魂へと導く。。。要するに人類全体の原罪からの救済だ。そこには貧困も差別といった人間特有の罪もなくなるという。
「存在すること自体の罪」を自覚せよ | NHKテキストビュー
Body3 生きるとは罪を抱えることを自覚すること
人は生きているだけで、他の生物の命を奪う。
魚を釣って食べる。。。罪である。
意図せず、シンジのように罪を犯してしまうこともある。
しかし、誰もが罪を背負って生きている。ケンスケは「つらいのはお前だけじゃない」と言う。
トウジは「生きていくためには、お天道様に顔向けできんようなこともした」と言う。
しかし、魂の救済を否定して、希望のある人としての道を選ぶなら、人は罪を背負う覚悟をするしかない。
殺す覚悟も助ける覚悟も持てなかったことをアスカは怒っている。助けられないならなぜ殺して、その罪を背負わないのか。
生きることは罪を犯して、罪を償うことの繰り返しだ。その覚悟を持てたからこそ、シンジはエヴァのない世界を望んで生きることを選べたのではないか。だれもが罪人だとうことを自覚すること。成長するとは罪を自覚するということ。きれいなままでは生きていけないのだ。
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メモ、終わり。
実は原稿全体の展開は「親」の時と似ています。第3村の話をしてミサトさんの話をしてゲンドウの話をして・・・という具合に。わざとそうしているわけですが、そうやって構成することで、ひとつのキャラクターがいろんなテーマを背負っているよということが浮かび上がるといいなと思ってそうしています。
罪という日本語は英語でsinとcrimeの両方の意味をなんとなく包含していますが、英語では明確に区別されます。宗教的な意味での「sin」が結構難しい概念ですね。ガンジーを引用しましたが、それは生きてる時点でもう背負ってしまっているようなものです。「crime」ではないのです。そこに向き合う作品として観た時、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』はまた新たな魅力を持った作品に見えてくるんじゃないかと思います。
3本の連載のうち、これが視点的には一番新鮮な感じがします。少し変化球のつもりで連載真ん中の2本目に持って行きたかったというのもあります。