リアルサウンド映画部に、『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』となぜマルチバース展開をするのかについて書きました。
『スパイダーマンNWH』は可能性を“捨てる”物語 マルチバースが現代に必要とされる理由
MCUでマルチバースの本格的導入が始まりました。この物語装置をなぜMCUは必要とするのかをいろんな角度から考えています。
杉山すぴ豊さんなどが指摘する、ファン心理に応えるためという観点と、仮想現実込みの世界を生きる我々が、かろうじて現実感を得るためという実存的な問題と、永遠に続く物語の構築という、主に3つのポインで説明しています。
どのスパイダーマンもいていいんだというのは、ダイバーシティ時代をにらんだ戦略で、ファン心理に応えるものと言えますね。そして、人気シリーズは永遠に続けて儲けたいので、終わらない物語をマルチバースは作ってくれる装置として優秀です。
3つ目の実存的な問題意識が、個人的には一番書きたかったところ。『ゲーム的リアリズムの誕生』などを参照してみました。マルチバースの在り方はゲームっぽいですよね。異なるプレイヤーが似たような世界で異なる物語を紡いでいるという点で、ゲーム感覚に近いと思っています。
無限の可能性があるからこその苦しみもまたあるなと思い、本作はその一端に触れている作品だと思いました。すごく面白かったですね。
以下、原稿作成時の構成案とメモ。
——————————————————–
【参照】
並行世界への招待:現代日本文学の一断面|第14章 それでも並行世界は〝ある〟(最終回)|加藤夢三 | 未草
現実世界の唯一性・特権性に対する率直な疑念
ゲーム的リアリズムの誕生
並行世界への招待:現代日本文学の一断面| 第2章 東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』──並行世界は何をもたらすのか|加藤夢三 | 未草
東は、まず一般論として「私たちは、一回かぎりの生を、それが一回かぎりではなかったかもしれない、という反実仮想を挟みこむことで、はじめて一回かぎりだと認識することができる」ということを確認します。(それがなぜなのかは、前回の柄谷の議論を思い起こしていただければ明らかなはずなので、ここでは省略します。)もちろん「この感覚は、人間の生の根底に関わるものであり、とくにポストモダン化やオタク化によって生みだされたものではない」ものの、東はそうした「古くからある普遍的な感覚が、新しい表現に生気を注ぎ込むことはありうる」と指摘し、その「新しい表現」のありようを「ゲーム的リアリズム」という術語で呼び表します。周知のように「ゲーム」とは、リセットボタンを押すことで「一回かぎりの生」が何度も反復されるという逆説を備えたメディアであり、たとえばそうした生/死の複数性が、いのちの尊さを軽んじるものとして、かつては批判されたりもしていました。(いまはそのようなナイーブな批判は少ないと信じますが……。)
MCUのマルチバースについて
『スパイダーマンNWH』に続き『ザ・フラッシュ』も マルチバースの概念を整理する|Real Sound|リアルサウンド 映画部
インフレーション理論。。。宇宙から別の宇宙ができる。。DCにも似たような考えが
「マルチバース同士が融合する」というのは、世界同士が合体してしまい、両世界の要素・特徴を併せ持つ新たな世界が誕生してしまうということです。
マーベル・ユニバース – Wikipedia
アース32|キャラクター|DCコミックス|ワーナー・ブラザース
映画『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』 | マルチバースとは一体何なのか? | ソニー・ピクチャーズ
時代ごとに作品をリセットしていかなきゃいけないっていう時に、前好きだったバージョンを否定されるのがファンは嫌なんです。だから、それはそれで、ちゃんと別世界の話なんですよって言うと、精神的に安定する。
多分これから先、新しいアイアンマンが出てきた時に、「ロバート・ダウニー・Jr.のアイアンマンが私は好きだった」という人は必ずいる。そこで、「別の世界」と言ってくれると、安心できるんです。マーベルは『007』みたいに役者を代えてつなげていくことをしないから、マルチバースという考え方は悪くないなと思います。
ファンに優しいシステムでもあるんですね。
そうですね。「アンドリュー・ガーフィールドのスパイダーマンが1番イケメンで好きだ」っていう人もいるし。そういう“前”を否定しない感じが、すごく大事なことだと思います。
マルチバースはいつから提唱された?
具体的なサイエンスになってきたのは、おそらく1970、80年代でしょうね。でもメジャーではなかった。「こういう可能性もある」と言われ始めたのが、多分その辺りですね。
アメコミの世界でマルチバースが出てきたのは、70年代頃と聞いたことがあります。描かれ方も変わってきたのでしょうか。https://www.spiderman-movie.jp/multiverse/
アメリカでTRPGが流行しだしたのも70年代。
ダイバーシティとマルチバース
ゲームデザインでダイバーシティが重要な理由|読み物|マジック:ザ・ギャザリング 日本公式ウェブサイト
ループものとの親和性と違い
傷つきを回避する時代の物語戦略。。。
友人関係における傷つきの回避とソーシャルスキルの関連
現代青年の傷つけ合うことを回避する傾向についての研究
現代青年の友人関係に関する新たな尺度の作成
↓
しかし、マルチバースなんて物語の一回生やかけがえのなさを壊しているんじゃないかと考えている人は傷つけている。
永遠に終わらない物語。。。永遠に卒業しなくてよくなる物語。。。。永遠に続く文化祭前夜、ループこそしないが、永遠に続く非日常
間違いが間違いでないとできるマルチバース。。。たとえその世界ではそれが間違っていたとしても、それはそういう世界線だから、別の世界線では正しい別の道があるとできる
別の生き方への想像力を持つことにつながるか否か
“マルチ・バース”って何?『スパイダーマン:スパイダーバース』が全世界で評価されている理由 | アニメ | BANGER!!!
こうしたマルチ・バースがいまさかんになっている理由は二つあって、一つはダイバーシティです。つまりアメコミは80年以上の歴史を持つ文化ですから、白人・男のヒーローが圧倒的に多い。こうした中、同じヒーローを違う人種、女性で語るという試みを、このマルチ・バースで展開するわけです。
いま『アベンジャーズ』映画でサミュエル・L・ジャクソンが演じているニック・フューリーは、オリジナルの原作コミックではもともと白人です。しかし、別世界のアベンジャーズ(アルティメッツといいます)の世界では黒人のニック・フューリーが登場。映画はこの黒人版を採用しています。
もう一つの理由は、コミックだけでなく、映画、アニメ、ゲーム、ドラマと様々なバージョンが生み出され、これらの設定が媒体の特徴にあわせアレンジされたときに、それらをすべて“よし”とするために、原作コミック、映画、アニメ、ゲーム、ドラマもマルチ・バースの関係にある、としたのです。
マルチバース一般論
インフレーションが十分長く続き、ついには我々の宇宙ができる。この論理でいくなら、ビッグバンがいつでも起き、宇宙から別の宇宙が生じて、インフレーションは永遠に続くことになる。宇宙から宇宙が芽吹き、マルチバースができるのだ。
カオス的インフレーションのモデルでは、個々の宇宙は永遠の存在でなくても、マルチバースは永遠だ。パラレルワールド 11次元の宇宙から超空間へ ミチオ・カク 斉藤隆央訳、、日本放送出版協会、P116
ゲーム的リアリズムの誕生
「ゲームのような小説」は、そのモデルがゲームにあるため、この矛盾する課題を抱えこむことができない。なぜならば、ゲームとは本質的に、物語を「リセット可能なものとして」描くメディアだからである。ゲームのなかで展開される物語は、それがゲームであるかぎりいくらでも「リセット」できる。したがって、そこではキャラクターもまた、いくらでも異なった物語を生き、いくらでも異なった死を経験することができる。これは、すなわち、そのキャラクターが「傷つく身体」「しにゆく身体」を獲得できないことを意味している。P120
複数の物語を生み出すメタ物語的なシステムとしてのゲーム P122
キャラクター小説を含むオタクたちの市場は、想像力の環境としてキャラクターのデータベースを常に参照しているため、原作の性格や原作者の意図とは無関係に、あらゆる物語をつねに「たった一つの終わりに向かっていくわけではない」ものとして読解し消費することができる。<中略> そこでは市場そのものが、あるいはオタクたちのコミュニケーションそのものが、一種のゲームシステムを形成していると言うことができる。P126
現在の読者の感性においては、、「キャラクターが立つ」とは、そこにゲーム=メタ物語的な読解の可能性が開かれること、つまり「たった一つの終わり」が解体されることに等しい。P130
ギタイに勝つと、その瞬間にループは終わり、通常の時間が流れ始める。通常の時間が流れるということは、もはや時間は戻らない。すなわち死者が復活しないということを意味する。したがって、そこでは、ほかのすべての戦闘での死者と異なり、最後の戦闘の死者は決して生き返らない。最後のループでの友人の死は、最後から二番目までのループでの友人の死とは、まったく異なる意味をもっている。そして、この死の二重性は、キリヤとリタに独特の感覚を抱かせることになる。P177
彼女にはその多数性が見えているにもかかわらず、結局はそのひとつの生しか、したがってひとつの死しか選べないことに向けられている。P179
桜坂はここで、死の一回性を相対化するメタ物語的な想像力を排除するのではなく、むしろその相対化を利用して、死の重要性を描いている。P179
ほかの物語の展開があることを知りつつ、しかしその物語の「一瞬」を現実として肯定せよ、これが、筆者が読むかぎりでの『九十九十九』のひとつの結論である。そして、その結論は、あらためて『動物化するポストモダン』の状況認識とつなげるならば、ポストモダンの「解離的」な生の問題、すなわち、大きな物語の消尽のあと、もはや自分が動物=キャラクターでしかないことを知りながらも、それでも人間=プレイヤーでありたいと願ってしまう私たち自身の、いささか古い言葉を使うならば「実存的な」問題と、きわめて密接に結びついている。P287
死のかけがえのなさ(一回性)は、それが帰属する物語世界のかけがえのなさ(一回性)が必要なのだとする大塚の論旨に対して、東は『All You〜』においては「死が一回的だとすれば、その一回性を感じるためにこそ、むしろ複数の物語が、つまりプレイヤーの視点が必要だと考え」られていると主張します。
https://www.hituzi.co.jp/hituzigusa/2020/07/15/pu-02/
↓
トビーとアンドリューの2人のスパイダーマンにこそ、次元を越境してゲーム的にやり直す機械が与えられているかのような展開。。。あるいはヴィラン達に。。。主人公そのものには、再帰的な体験を与えていない。。それはなぜか。
別のMJやネッドがいるかもしれない、、、それでもこの世界のMJやネッドがかけがえのないものとして主人公に体験させるには、いかにすべきか
この世界には無数の世界がある。。。。だから世界は多様なのかもしれない、しかし、自分の生は自分固有のものでしかなく、どれだけ世界が無数にあっても交換できるわけではない。世界は多様だが、自分の人生は固有。この逆説に耐えられのか、人は。。。トムホのスパイダーマンが直面する
↓
物語に感情移入する、あのような世界でかっこよく活躍したい。しかし、自分が生きる現実は物語ではない。物語の世界は並行世界のように、自分にはいけない場所にある。しかし、その世界の実現可能性が感じられて初めて、自分の生きる世界のかけがえのなさに気がつくかもしれない。
構成
Thesis
マルチバースの実存的な問題意識
Point3つ
だれも傷つけたくない時代の物語戦略
死の一回性、人生の一回性の回避と直面
無数の選択肢の中でどれを選び、選べないのか、、、一回性ある自分の人生と目の前に広がる無数の選択肢のギャップ
永遠に終わらない、永遠に続く世界。。。大きな物語が消尽した後の復活か
Intro
NWHで本格的に始まったマルチバース
この物語装置とは何なのか。。。商売上の理由は当然ある。
だが、他にも現代人の実存的な問題も潜んでいる
Body1 マルチバースとは
簡単に説明
ビジネス上のメリット・・・IPの有効活用
しかし、それだけで説明するのはどうなのか
Body2 誰も傷つけたくない時代の物語戦略
傷つくこと、傷つけることを極端に恐れる時代。何も否定しない時代の物語装置としてのマルチバース
杉山さんの引用
青少年の研究結果の引用
ダイバーシティ問題とも結びつけて考えないといけない。
白人しかヒーローがいない、しかし、白人を黒人したら、元のファンはどうなるか、そこで宇宙が違うことにする。
どの宇宙も存在していいんだ、だれもが存在していんだという。誰も傷つけない戦略
Body3 人生の一回性、死の一回性の
ゲーム的リアリズムに生きる私たち。
自然主義的リアリズムから、アニメ・まんが的リアリズム、そして、リセット前提の生を生きるゲーム的リアリズムへ
死の一回性、物語の唯一性をめぐる言説
↓
それはポストモダン時代を生きる人々の実存に関わる
二次創作の乱立にも近い、「たった一つの終わり」が解体されることに等しい」
死にゆく身体の否定。。。。ヴィランに生き残る可能性を模索する。
同時に、自分の人生の一回性をいかに確保するのか、そこには明確になっていない。
マーベルのマルチバースにおおいては、向こうのピーターはこっちのピーターではない。別人だという点で、シュタインズ・ゲートやら、ひぐらしのような並行世界の在り方とは異なる。完全に別の世界に別の誰かがいる、という話。
↓
しかし、死はリセット可能な時があると示唆している。ヴィランたちの扱いにそれは見て取れる。
↓
ここで不思議なのは、メイおばさんの死をなかったことにする可能性が模索されない点。死の一回性は否定されているが、トム・ホランドのピーターにとっての決定的な喪失は回避されない。といいうより回避を検討しない。
これをどう考えるべきか。
大塚の議論と東の議論。。。様々な物語の多数性を目の前にしながら、自分の生は固有のものという想いを強くするために、そうなっているのか。
Body4 無数の宇宙があり無数の選択肢がある、だが
メイおばさんの死なない道もなんでもかんでも模索できる。だがそのように物語は進まない。なぜか、脚本家の考えたことはわからない。
だが、一般論として無数の選択肢が人を幸せにするとは限らないとは言える。
選択肢が増えると幸せになれるは本当か。
ジャムの法則(決定回避の法則)とは?マーケティングの活用事例|仕事に役立つ心理学社会人の教養
決断疲れという概念
↓
そんなバージョンのピーターもありえたのか、と知りすぎることは幸福につながるとは限らないかもしれない。
↓
過剰な比較はきりがない。上にも下にもきりがない。比較自体に疲れてしまう。
↓
世界はダイバーシティだが、私はアジア人に生まれたことを取り消せない。
男に生まれたことも取り消せない。
私は、別のユニバースに生きる可能性を剥ぎ取られている、ここのユニバースに生きる可能性しかないことを突きつけられる。固有の人生を問答無用にマルチバースは突きつける。
↓
結果として、誰も傷つけないはずのマルチバースは、むしろ、全員傷つける可能性もあるかもしれない。
↓
様々な人生があることがわかった。だが、それでもなお、自分の人生は一つであり、無数に選べるわけではない。
この多数性を前にした一回性の固有のプレイヤーの人生の一回性の重要さを振り返る。
ゲーム的リアリズムの誕生
彼女にはその多数性が見えているにもかかわらず、結局はそのひとつの生しか、したがってひとつの死しか選べないことに向けられている。P179
桜坂はここで、死の一回性を相対化するメタ物語的な想像力を排除するのではなく、むしろその相対化を利用して、死の重要性を描いている。P179
ほかの物語の展開があることを知りつつ、しかしその物語の「一瞬」を現実として肯定せよ、これが、筆者が読むかぎりでの『九十九十九』のひとつの結論である。そして、その結論は、あらためて『動物化するポストモダン』の状況認識とつなげるならば、ポストモダンの「解離的」な生の問題、すなわち、大きな物語の消尽のあと、もはや自分が動物=キャラクターでしかないことを知りながらも、それでも人間=プレイヤーでありたいと願ってしまう私たち自身の、いささか古い言葉を使うならば「実存的な」問題と、きわめて密接に結びついている。P287
生き残ったヴィランたちが元の宇宙でどうなったのか、分岐したのかわからない。だが、おそらくその死の一回性は否定されていないのでは
それに対して、案外自分は何もできない。無数の人生がある。だが、自分は自分でしかありえない。黒人になれない、白人になれない、シスジェンダーでしかありえない、リセットしても自分は自分でしかない。
ゲーム的リアリズムにおいて、リセットできるのは世界だけ、というのがポイントだ。
自分の人生のかけがえのなさを実感するためにも、無数の選択肢を目撃すること、あれもある、これもある。それぞれが感情移入する対象は異なるが、相対化作業なくして、実存の大切さを得られないのでは。
だからこそ、とにかく今の世界で一回性の世界を生きることを疑わずにトム・ホランドのピーターは振る舞うのかもしれない。
Body5マルチバースが示す永遠性
マルチバースは永遠を意味するのか。
マルチバースのインフレーション理論
これをマーベルもDCも意識してくるのではないか。
杉山さんの言葉を引用
永遠に戯れることが可能な物語装置。。。あたかもループもののような、永遠に楽しい文化祭前夜が続き、そこに耽溺していられるような。
実際、スパイダーマンは60年代に登場し、いまだに現役の物語なのは驚異的なこと。
終わらない物語という点で、物語の死は否定されている。
↓
宇宙同士が融合して、新しい宇宙が生まれれば、それはそれでリセット状態ともいえる。
これもビジネス上、大変に有用。そして、ファンもそこから卒業しなくて済んでしまう。ビジネスとファンの共犯関係が成り立つ
—————————————-
メモと構成案、終わり。
かなり雑多な情報の集め方をしているように感じますね。それこそ、マルチな視点でマルチバースを考えてみようと思ったんだと思います。
でも、それなりにわかりやすい文章になったかなと思います。誰も傷つけないだめの戦略が結果として、誰もが傷つくものになるかもね、という逆説的な展開に納得感を感じていただければよいのですが。
結局は、世界がいくつあろうとも、自分の人生は一つだけであるということが、より強調されますよね、マルチバースって。それはむしろ残酷なことなのかもしれないですね。選択肢を知りすぎてしまうこともまた不幸であるというか。
関連作品