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文化の力が復興に必要な理由。映画レビュー「究竟の地−岩崎鬼剣舞の一年」

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東北が震災から復興するには、文化の力が絶対に必要だ。
メシを調達し、暖を取るだけなら日本全国どこでもできる。コンビニとガソリンスタンドさえあればいい。
そういう十分に「機能的」な場所は至るところにある。しかも大抵どこでも同じように機能する。

しかし、そうした機能を復活させるだけで東北は復興するか。すでに機能的な場所は東北じゃなくてもたくさんある。そこに人を留まらせる、あるいは引きつけるには文化的求心力が必要だ。文化的な営みが消えた地域に人は中々留まってくれない。人が少なくなればなるほど、復興は難しくなる。

というか人が多く住むところは大抵多くの文化的営みがある。東京に人口が集中するのも雇用が単に多いということだけじゃないはずだ。とすれば東北に人を呼び戻すためには機能が回復するだけでは足りないのじゃないだろうか。
この映画「究竟の地−岩崎鬼剣舞の一年」には文化的営みがコミュニティの復興に大きく役立つことを示唆している。

角の無い鬼の面をつけて踊る岩崎鬼剣舞。角は無いのは開くから改心した存在だからとされている。踊りは力強さと華麗さを併せ持ったしなやかな動きは見ていて目を奪われる。
このローカルコミュニティでは、男も女も大人も子どももこの剣舞を舞う。小学校でも授業があり、地元住民が仕事の合間を縫って教えにくる。小学校という場は地域のコミュニティを形成しやすい場所だ。現代は大人はそれぞれ別の仕事をし、それぞれ余暇の趣味を違い、接する機会が少ないが、よほど白状な親でない限り子どもというのは共通の関心事だ。

しかし、この岩崎の地では、この剣舞を通して様々なところでコミュニケーションが生まれる。というより人が集まるところに剣舞あり、という感じか。なにしろ祭りでも結婚式でも葬式でも彼らは剣舞を舞う。祝福も供養も剣舞で行うのだ。

過疎化による子どもの数の減少で、閉校となる小学校で最後の夏祭りが行われるシーンは、とくに象徴的だ。閉校という別れと夏祭りの賑やかさが一体となる。そこで地域住民がみんな集まって剣舞を踊る。この地域の人間はみんな踊れるらしい。近頃東京では中々見られないような類の一体感がそこにある。この東北のローカルコミュニティの力強さをストレートに表現されている。小学校の閉校というのは、そこのコミュニティにとってある種の死を意味することもあるように思う。今は子どもという共通項によってかろうじて共同性を保っているような地域も少なくないだろう。しかし、この岩崎の場合は、そうは思えない。
この鬼剣舞という文化的営みは非常に魅力的で、協力な求心力があり、そうそうこの地域の共同性は失われないのではないか、そう感じさせる。

東北の復興に文化の力が必要とされる理由がこの映画には示されている。
しかもこれが震災前の2008年に撮られた作品だということが面白い。でもそれが表現というものだろう。

情報は、新しく鮮度が高ければ価値があるという物でもない。ネット時代になって情報が大量に溢れ、新しい情報がどんどん出てきて、古いものはどんどん淘汰されていくが、今価値が無くても後に価値を生むものもある。3.11はそのことを僕らに突きつけた。
震災前の被災地の何気ないスナップ写真も今では貴重な資料になり得る。思いでの詰まった物という意味でも価値がある。
だから、情報を産み出す、表現するという行為を止めない方がいい。

映画公式サイト。

本作品の監督、三宅流監督の前作です。

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