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『ドライブ・マイ・カー』の濱口竜介監督について書きました

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 リアルサウンド映画部に、『ドライブ・マイ・カー』がオスカー作品賞候補となった濱口竜介監督について書きました。

 濱口竜介を“声の作家”として読み解く 初期作から『ドライブ・マイ・カー』に至るまで|Real Sound|リアルサウンド 映画部

 濱口監督の映画は登場人物たちがよく喋ります。セリフ優位の作家と言ってもいいと思います。

 映画は映像による表現なので、説明過剰は駄目とよく言われますが、濱口映画って結構感情をセリフで言わせているんですよね。でも、その声がすごくいい。

 この原稿では、そんな濱口監督のキャリアを声を中心に振り返っています。

 映画批評は写っているものに大きな注意を払って発展してきたのですが、そのわりに聞こえているものに対する注意がおろそかだったのではないかと思っています。音の表現力というものに注目すると、濱口監督の映画の面白い部分が浮かび上がってくるのでは、という狙いの原稿です。
 
 
 以下、原稿作成時のメモと構成案です。 
 
 
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数千文字で濱口竜介を語りきれることはない。虫食いになるが、それを覚悟して書く

濱口監督のフィルモグラフィを振り返る形で、どんんな形で『ドライブ・マイ・カー』『偶然と想像』に至ったか、積み上げてきたのか、というコラム

聲の時代の作家、濱口竜介
聲の作家、濱口竜介
聲が身体を導くとは、どういうことかを追求

台詞だらけの濱口映画
聲とセリフの作家、、、声とセリフが身体を動かす

彼の作品の、これまでの試みを振り返る要素が必要

何食わぬ顔・・・・声の優位性、、、8ミリのざらつく不明瞭な映像にひびくセリフ
PASSION。。。。濃密な会話劇
親密さ・・・・演劇
東北のドキュメンタリー3部作・・・声の記録
ハッピーアワー・・・キャスティングの時に声、、、ワークショップの聞くこと、はらわたを聞く、、、からだはしゃべっている。言葉とからだの随伴性。。。。
ドライブ・マイ・カー・・・妻の声のカセットテープ、、、声だけ生かされている。

演じること
 
 

Thesis 声の作家、濱口竜介
 
 

Intro
「自分自身に耳を傾けなかった。だから僕は音を失ってしまった。僕は、音に会いたい」。月刊シナリオ2021年11月号P70
これだけ抜くと、奇妙。文字にすると面白い。
ドライブ・マイ・カーの台詞の一部。

音という妻の声は、映画オリジナルだ。映画序盤で死ぬ妻、音の声とともに物語は進んでいく

濱口映画はセリフが多い。ものすごく多い。大事なことをたくさん言葉で語っている
それはよく、映画において批評的に批判されることのある態度でもある。

しかし、声、あるいは音への信頼に濱口映画の特徴はあるのではないか。

声の作家としての読み解いてみる
 
 

Body1 言葉とからだの随伴性

とにかく台詞の多い作品ばかり。しゃべることを演じることが完全に不可分
本人もどっかで台詞なしでは映画を作れないと言っていたような。

本人も言葉へのこだわりと書いている。
言葉とからだの随伴性について引用。カメラの前で演じることP24

ハッピーアワーのワークショップはそれの実践として演者を導くためのものとしてのテキストだった。
聞くことを重視する。。。カメラの前で演じることP38
キャスティングの時にも声の重視する。。。たんに綺麗な声ということではない。。。カメラの前で演じることP70

ドライブ・マイ・カーも多くの台詞がある。台詞がからだを導くのだという強い信念があり、それに向かって演出される。

言葉と音へのこだわりは、物語にも表れる。この原作が選ばれた理由は何か。

前述したように、妻に音と名付けた。
そして、妻は死んだ後、カセットテープに録音された「音」だけの存在となり、作品全体に大きな影響を与え続ける。
身体はなく、声はある存在、
本読みを重視するのその演出スタイルとテーマは通底している

ユンスの台詞、チェーホフのテキストが動かなかった体を動かしてくれる

偶然と想像の第二話では、声がいいと録音させてほしいと教授が言う。ここでは、それが悲劇を生む。言葉が物語を牽引していく。

東北3部作・・・語りを記録したドキュメンタリー。。。このようにフィクションで語れる人を撮影できるか
カメラの前で生き生きとしゃべってくれるひとをはじめて撮ったという実感を持った。何でもない言葉に実感がこもっていた。そのことにとても感動していた。フィクションの中で、こんな風にしゃべってくれたらどんなにいいだろうと繰り返し思った。
いい声に出会う。。。カメラの前で演じることP34

手話というもの。。。。音ではない声があるということ。新しい要素と言えるか。
最後は手話で締める。。。舞台。。。観客席に向き合って行われている
脚本上ではワーニャとソーニャが向き合っている。抱きしめ合ってから観客の方を向くとなっていて、少し違う

正面カットの有効性。。。演者と観客を向き合わせるカットは、「永遠に君を愛す」で導入された。どこで使われているかは、濱口映画では重要だ。語り掛けられているのは誰か

演技をかすめ取っているような気になったとPASSIONについて語ってる。。永遠に君を愛すから正面にカットを置いた。。。それと同じか
からだはしゃべっている。。。カメラの前で演じることP26
 
 

Body2 演じる主体を描く
メタフィクション構造を取る作品を定期的に撮っている
何食わぬ顔、親密さ、ドライブ・マイ・カー

なぜか。
彼女は私ではない、しかし彼女は私でしかない。。カメラの前で演じることP22

この演出上の命題が作劇の中で二重化される

ワーニャは家福ではない、しかしワーニャは家福でしかない。そうとしか見えない瞬間がクライマックスの舞台にはある。
それは、家福は西島秀俊ではない、しかし家福は西島秀俊でしかない、という風に多重に見えてくる。嘘のない演技とはとことん突き詰める

恥の概念。。。恥を捨てるとは、嘘になる。そうではない身体の恥を考慮してテキストを変えていく脚本の在り方を模索したハッピーアワー
カメラの前で演じることP52

演者は自身のからが拒むような役柄を演じられるのか。

家福はワーニャを拒んでいる。しかし、正しく傷つくことでワーニャという役を受け入れる。そのプロセス
『親密さ』の主人公の脚本家の方がわかりやすくそれが出ているかもしれない。自分が書いた脚本を彼は自分で演じようとしない。しかし、演じざるを得ない状況に追い込まれる。彼はなぜ拒んだのか。何か気恥ずかしさを感じているような。。。気取り屋っぽいキャラであるから、余計にそう感じられるものがあった。

演じる主体は俳優だけのものではない。日常における演じる瞬間、
偶然と想像の1話で嘘をつく彼女だったり、3話の同級生のフリをするものだったり。
皆何かを演じている。。。ハッピーアワー

演技的存在としての人間
演じる、反射する、変化する、ごく当たり前の存在として私たちは演じている。敷衍する演じる行為に不思議さを見つけた時、この世界が変わって見える。
ハッピーアワー論P54

演技的存在としての人間が変容していくプロセスをじつに鮮やかに見せる。言葉がその変容を牽引していく。
創作の仕方と不可分な内容がある。こういう方法でしか生み出せない何か、世界を観る我々の目と耳を変容させる。

新映画論P270。。。視覚優位のパラダイムが大きく揺らいでいる
 
 
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メモ終わり。

 濱口監督の過去作も素晴らしい傑作ぞろいなので、機会があれば是非見てください。『ドライブ・マイ・カー』の大きな成果は決して偶然ではないことがよく分かると思います。
 
 
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