[PR]

『映像表現革命時代の映画論』の中身について解説します

[PR]

 12月19日に発売となる僕の著書『映像表現革命時代の映画論』の発売があと一週間となりました。

 早い!

 前回のブログでは、本書全体のテーマを簡単にご説明しましたが、今回は、本書の中身を一章ずつ解説してみたいと思います。購入検討の参考になれば幸いです。

 ちなみにこの投稿のサムネイルは、本書の文章全文をワードクラウドのサービスに突っ込んで出てきた結果です。頻出ワードを自動抽出してくれるサービスなんですけど、これらの単語がよく出てくる本ということです。

 本のタイトルは「映画論」ですけど、一番頻繁に出てくる単語は「アニメーション」なんですね。ただ一人、固有名詞で「庵野」ってありますが、これはもちろん庵野秀明監督です。他にも神山健治監督にはわりと言及した気がするんですけど、入ってこなかったな。

 

 第一章 現代アニメに息づく映画史

 一章で取り上げる主な作品は以下の通り。

『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』
『ヴァイオレット・エヴァ―ガーデン』
『Away』
『すずめの戸締まり』

 アニメーション作品は、基本的にアニメーションの歴史の文脈で論じられることは多いと思います。まあ、普通そうですよね。実写映画も実写映画の文脈で語られます。「この映画は、〜の映画の影響を受けており…」とか、「このアニメのあのシーンは、〜のアニメのオマージュで…」とか。この章では、敢えて現代のアニメーションを(実写の)映画史を参照して、そうするとちょっと違う見方ができるよねということを提示しています。あるいは、こういう演出やこういう題材は、アニメーションでは難しい」と思われているものも、実はできるんだということを示そうと思いました。

 例えば、『無限列車編』の舞台は走る列車ですが、列車と初期映画の関係とはなにか。リュミエール兄弟も初めての上映で列車を見せたのですが、なぜ列車だったのかを参照し、『無限列車編』がどうして映画化に向いていたのかを考えています。そうすることで、実写とアニメーション双方に共通する特徴が見えてきます。

 また『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』を、ハリウッド黄金時代に花開いたメロドラマを参照して紐解いています。「泣ける」メロドラマの映画史的な立ち位置を確認して、その美学がどうこの作品に見られるか、映画やアニメで「泣く」とはどういうことかを考える原稿になっています。

『Away』では即興を取り上げています。『すずめの戸締まり』では震災ドキュメンタリー映画を引き合いにして、アニメーションによる記録の可能性を考えています。どちらも、アニメーションではやりにくいと一般に思われているものだと思いますが、現代ではアニメーションなりのアプローチがあるのです。

 

第二章 実写とアニメーションの間隙

 ここで取り上げている主な作品はこちらです。

『るろうに剣心』実写版
『シン・エヴァンゲリオン劇場版』
『マトリックス』シリーズ

 いずれも、実写とアニメーションの境界を考える上で参考になる作品をセレクトしたつもりです。境界を攻めている作品という感じでしょうか。

『るろうに剣心』は、アニメ・マンガ実写化の成功例としてピックアップ。アニメやマンガを実写化する時、作り手は「実写ならではの表現」を考えると思うのです。ただ、原作を引き写しただけでは成功しない、実写だからできることに敏感じゃないと上手く行かないと思うんですよね。『るろうに剣心』がそれにどう挑んだのかを検討した原稿になっています。

『シン・エヴァンゲリオン劇場版』は、庵野監督のこれまでのキャリアを振り返るような内容になりました。実写とアニメ両方を監督している庵野監督ですが、その姿勢に2つの間にある「もう1つの空間」を目指しているのでは、みたいなことを書いています。

『マトリックス』シリーズは、実写にアニメ的な映像作りを持ち込んで大きな成功を収めたハリウッド映画ですね。一作目公開時、ウォシャウスキー姉妹が、日本アニメの影響を熱心に語っていたことは業界的にもセンセーショナルなことだったと思います。当時の映画雑誌を読むと、いろんな国内の作家が「やられた!」みたいな感じで語っていました。この原稿では、有名なバレットタイムについてもう一回きちんと考えてみようという内容になりました。

 

第三章 フレームレートとテクスチャー

 取り上げている主な作品はこちら。

『PUI PUIモルカー』
『攻殻機動隊 SAC_2045』
『アバター:ウェイ・オブ・ウォーター』

アニメーションと言っても絵によるものだけじゃないので、絵以外の作品も取り上げる必要があると思っていました。『モルカー』を取り上げたのは、人間をコマ撮り(アニメ―ト)しているシーンがあったから。ピクシレーションっていう手法ですけど、これは実写だけどアニメーションなんですよね。本書のテーマにぴったりなので、やらなきゃなと。

『攻殻機動隊 SAC_2045』と『アバター:WoW』では、モーションキャプチャとは何かについて考えています。アニメーションはコマ撮りによる表現ですけど、モーションキャプチャはコマ撮りと言えない、でも実写かと言われると微妙。そういう技術ですね。この2つの作品は、どちらもモーションキャプチャが使われているけど、映像のテクスチャーのリアル感が異なります。同じ技術をベースにしているけど、受ける印象がまるで異なります。

 この章のテーマは映像の「フレームレート」と「テクスチャー」のあり方です。普段、映像作品を観る時にどこまでこの2つを意識するかは、人によってバラつきがあると思いますが、すごく大事な要素であって、その重要性はこれからますます高くなると思っていて、この章でそのことが伝わると良いなと思っています。

 

第四章 実写とアニメーションの弁証法

 ここは、作品を論じるのではなく、実写とアニメーションの映像産業の中の位置づけとか、両者の定義について再考する内容です。アニメーションはいろんな識者の方がその定義について論じているんですけど、実写って定義があるのかなと不思議だったんですね。

「撮影してれば実写でしょ」とシンプルに考えることもできますけど、撮影してないCG映像だらけの作品でも「実写」として流通してるのはどういうことなのかとも思うわけです。そういう疑問はみなさんも感じたことあるんじゃないでしょうか。そんな疑問に答える章になっていると思います。

 

第五章 AI時代の演技論

 生成AIが急速に成長し、映像業界的にも近い将来無視できないものになるだろうと思って、AIについて一つ章を割くことにしました。AIについては論点がたくさんあるんですけど、全部は書けないので、「俳優とAI」という論点に絞ることにしました。おりしもハリウッドで俳優の組合がAIの利用用とを巡って大規模ストライキを起こしたので、丁度良かったかなと思っています。

 だからと言って、この章はアニメーションに関係ないかというと全くそんなことはないです。最後の原稿「生成AI時代の芝居と心をめぐる考察」は、「絵に過ぎないアニメキャラの芝居に感動するのはなぜか」という問いにもつながる内容になっています。

 今、SNSなどでよく見かける、実写をアニメ風にした映像、またはアニメを実写風に変換したAI映像は、今後精度が高くなっていくでしょうが、そうするともう制作手法で実写とアニメーションを分けることはほとんど不可能になる気がしています。多分、映像の未来は実写もアニメ―ションも区分けのない、「混濁した何か」ではと個人的には考えているのですが、そういう僕の考えもある程度反映した内容になっています。

 ちなみに、「俳優とAI」という論点を選んだのは、「AIは心を持てるのか」という問いが現実社会で台頭してきたからというのもあります。俳優は心を使って仕事する人たちと考えられていると思うので。なので、この章は「AIに心は宿るのか」を考える上でも役立つ内容かなと思っています。
 

結局どんな人にオススメなの?

 もちろん、映画・アニメーションに興味ある方なら、どなたでも買ってほしいと思っています。押井守監督の「デジタルの地平で、全ての映画はアニメになる」という言葉を覚えていらっしゃる方はもちろん、アニメーションの定義を考えたい人、最近のハリウッド映画はCGばっかりでアニメみたいだけど、どう評価したらいいのかなと思っている人、実写映画が専門だけどアニメのことも勉強したいなって人、またはその逆の人、AIが与えるインパクトについて真剣に考えたい人、色々な人に刺さるものがあるはず!

 そして、なにより映像の未来について探求したい人のための本であると思っています。そういう意味では、今大学などで映画やアニメーションの勉強をしている方にはぜひ読んでほしいなと思っています。今の混淆した映像環境を当たり前に生きている人ほど、呑み込みやすい内容かなという気もします。

 だから、大学の本屋さんに置かれたいです。大学の本屋さん、ぜひお願いします!
 

購入は以下の写真をクリック!

[PR]