ある意味貴重な映画だ。
なぜなら普段彼らが伝えている情報に隠れているジャーナリストや映画監督という表現者の醜態を可視化しているから。
被災地を撮影したはずの作品だが、この映画では被災地は背景に過ぎない。そもそも四人のドキュメンタリー作家たちは実際、映画にするつもりもないがとにかく見に行った、という旨のテロップが冒頭に入る。(現認という言葉を使っている)
取材目的が不明瞭、とも正直に告白している。この作品はプロの映画監督とジャーナリストのよる物見遊山の記録と言ってもいい。
放射能警戒区域内に立ち入り付着した放射能を恐れ、レインコートを車内に回収せず民家の前に捨てる映画監督。そもそも回収のことを考えずに警戒区域内に立ち入ったのか。結局準備不足がたたってたいした取材もできずに福島を後にする一行。宮城と岩手に入り、被災地で出会う人々にカメラを向け「今の心境は?」というありきたりな質問を繰り返す映画監督。一体何がしたいのか。
石巻赤十字病院のスタッフから、全ての命を救うことができないから救う命を選択する、という言葉を聞き出したのはせめてもの救いか。しかし、それを聞き出したのは、道中一緒になった共同通信の記者で、この映画制作スタッフではない。
映画は壊滅的な打撃を受けた被災地を延々と写し続ける。できるだけ非日常を撮りたいという欲望が全面にですぎているんじゃないか。カメラはホントに口ほどに物言う機械だ。カメラを回している人間のポジションや欲望を雄弁に物語っている。極めつけは死体の隠し撮り。あのアングル、構図は明確に「無許可」撮ったと正直すぎるほどに告げていた。というよりそれを示すことこそが狙いだったか。
ラスト、死体を隠し撮りした一行は、死体の回収にあたっている現地の人達に木材を投げつけられ、撮るなと怒られている。連絡先を渡し一応の謝罪をし、それでも伝える使命があると訴えるものの、遺体の回収作業を行っている方達も家族を失った被災者だ。並の誠意で心を開くはずもない。(しかし、このシーンが使われているということは、一応後で話をつけて映像の使用許可を得たということだとは思うが)
この映画があのシーンで終わるのはどういうことだろう。自己反省のつもりなのだろうか。被災地の人々の苦しみや悲しみをすくい上げることもほとんどできず、ただ自分たちが失敗したというエピソードで終わるこのドキュメンタリー映画は一体何なのか。自分探しでもしに行ったのか。
あれだけの大悲劇を前に自分達の後ろめたさの正体を探しに行くというのは、単純に下劣な行為と言わざるを得ない。
しかし、あらゆる報道は、そういう側面があるのも事実だ。その下劣さを完全に切り離すことはできない。
それは広くメディアに関わる人間は忘れてはいけないことだ。
だから報道には責任が伴うのだとも思う。その下劣さでだれかを傷つけたのだから、きちんと伝えるという責任が。
しかし、この映画は被災地の何を伝えたか。
伝えたのは自分達の下劣さだった。これをどう捉えるべきだろう。彼らは責任を持ってメディアが報じないメディアの下劣さを示した、と賞賛すべきか。
それとも下劣であることを自覚しつつ、被災地の真実を伝えることが本来の責任なのだから、それに失敗している以上、そんな自己反省でごまかすべきではない、と非難すべきか。僕は後者だと思う。
「真実」を伝えるために奔走するジャーナリストを安易に正義の味方だと思う人にこの映画は見てもらった方がいいように思います。安易に「マスゴミ」と叫び、妄信対象をフリーのジャーナリストに変更したような方には特にオススメしたい作品です。
こちらの森達也監督のインタビューも参考にどうぞ。
http://news.nicovideo.jp/watch/nw207306
公式サイト
http://docs311.jp/index.html