久々にリアルなアメリカをスクリーン上で見た。いや、本当にアメリカってこういう国だと思う。
全米で大ヒットした映画「ハンガー・ゲーム」は毎年24人の少年少女を各地から選抜し、殺し合わせ、その様をテレビ中継するという荒唐無稽とも取れるストーリーですが、それでもなおアメリカの深い部分のリアリティをえぐり出しています。
以下あらすじはネタバレを含みます。
かつて反乱が起き、第13地区が壊滅した後、富裕層が住み、他の貧しい12の地区への制裁として(表向きはこの悲劇を繰り返させないために争いの愚かさを忘れないために)年の一度のイベント「ハンガー・ゲーム」を開催している。各地区から男女1名ずつの少年少女を選び、殺し合わせるというこのイベントは首都キャピトルに住む富裕層にとっては最高の娯楽だ。主人公はカットニスは、妹の代わりにこのイベントに志願、そしてカットニスの地区から男の生け贄として同級生のピータ・メラークが選ばれた。
選ばれたプレイヤーたちは、それぞれスタイリストを割り当てられる。広大な森の中でのサバイバル戦は、単に強いだけでは生き残れない。食料などの物資を援助してもらうためには自分を魅力的に飾り立て、スポンサーをつけることが勝利の必要条件なのだ。スタイリストのシスの素晴らしい演出のおかげで聴衆の心を掴んだカットニスとピータ。さらにピータは司会者とのトークショーの中でカットニスへの恋心を告白する。困惑するカットニスだが、聴衆の関心をおおいに買うことには成功し、「作戦」としては大成功だった。
大会が始まり、一気に半数近くが死ぬが、カットニスとピータはともに生き残っていたが、このゲームで生き残れるのは1人だけ。いずれは2人も殺し合う運命であるが、ある地区での暴動を起き、怒りのエネルギーを逸らすために主催者は突然ルールを変更する。もし、同じ地区の男女が2人とも生き残ることができればその2人を勝者と認めるというのだ。2人の恋物語を利用して暴動をへの注意を逸らし鎮圧するのが目的であるが、カットニスはすぐにピータと合流し、2人は協力しあい、最後まで生き残ることに成功する。
しかし最後にまたしてもルールが変更される。やはり勝者は1人だけであるとされる。ルールに従うのであれば2人は殺し合わねばならない。しかしカットニスはピータと共に2人での死を選ぶ。このまま死なれれば聴衆の批判がむしろ主催側に向くかもしれないと判断した主催者は、急遽2人をゲームの勝者として認める。
原作は未読なのですがこの映画は、ショービジネス精神に毒されたアメリカという国を非常によく表現できていると思います。ハリウッドのような世界一の娯楽産業を抱えている、ということではなく、アメリカという国は政治も経済も司法も、社会のあらゆる側面にショービジネスの要素が食い込んでいる。そしてその精神性はアメリカが推し進めるグローバリゼーションの根底にも根付いているのです。
強い奴ではなく、魅力的なストーリーを提供した者が生き残る
この映画は、とにかくいたるところで、強い奴が生き残るではなく、最も観客を湧かせたやつが生き残るということを示唆する描写が出てきます。
主人公、カットニスはそもそも美少女であるのですが、彼女がこのハンガー・ゲームに出場する経緯からしてすでに人が熱狂しそうなドラマチックな要素が入っています。
カットニスは、抽選で運悪く選ばれてしまった妹の代わりに史上初の立候補という形でこのゲームに参加することになります。案の定、そのエピソードはゲーム開始前のトークショーなどでも話題として挙げられ、観客の興味を引いている様子が伺えます。
参加者中、事前の審査で最も高い評価を得るカットニスですが、それも純粋に力を評価してもらったというよりは度胸のあるパフォーマンスに対する様子が強いように思えます。
第12地区からカットニスとともに選ばれたピータとの恋愛エピソードは、彼女の生存に決定的な役割を果たすことになるのですが、そんな背負った背景なども含めて最も「絵」になる人物を英雄として祭り上げることにこのゲームの開催される意味があります。
かつて反乱を起こしたことへの粛正や見せしめなら、生け贄をただ殺せばいいだけですが、そうしない。それではカタルシスも希望もないし、誇りもない。自分たちの地区から勝利者がでるというのはある種の希望や誇りだと思ってしまっているのではないでしょうか。決して富裕層に対する趣味の悪い娯楽というだけではないのしょう、このゲームの開催意義は。
実際に、ゲームの途中である地域で暴動が起きますが、それを収めたのは軍隊による抑圧ではなく、カットニスとピータの恋愛劇でした。
生き残るのは強い奴ではなく、最も魅力的なストーリーを提供したもの。いや、主催者によって「生かされた」と云うべきでしょうか。
湾岸戦争のきっかけを作ったナイラ証言のような、虚偽の証言がまかり通るアメリカでは、時に事実よりも魅力あるストーリーの方が重きをおかれることが本当にある国です。
地方検事も選挙で選ばれるアメリカでは、何よりパフォーマンスに優れていないといけない。そういうパフォーマンス好きな検事を評決のときという映画でケビン・スペイシーが演じておりましたね。
ちなみに評決のときという作品は、アメリカの司法においてショーと物語の要素がいかに判決に影響を与えるかを端的に描いていましたね。復習による殺人が事実で、それを覆す証拠も証言もなくても陪審員を巧みな弁論で感動させてしまえば無罪を勝ち取れるという様を描いているわけですが。
プラットフォーマーの突然のルール変更というグローバル時代の新常識
この作品のストーリー展開への批判として、度重なる都合のいいルール変更があるようですが、これもアメリカのエゴイスティックな本質を良く突いていると思います。この国は合理的に利用できるものは利用しますよ。
それにああした突然のルール変更も、AppleやGoogle、フェイスブックなどのグローバルプラットフォームの突然のルールやUIの変更という形で僕らは度々経験しているように思います。
カットニスのスゴい所はそのルールの変更に瞬時に対応しているところ。最後に毅然とした態度で心中を選択するカットニスは、ルールの変更に戸惑うどころかさらにドラマチックな展開を瞬時に考えついて逆手に取っている。天才的な才覚です。
グローバル時代には生き残る上で、そうした才覚は決定的に重要なのではないでしょうか。
娯楽としての処刑
貧しい少年少女の殺し合いが娯楽として提供されるというのは異常な状況だとも云えますが、人間の歴史を振り返ると処刑とは娯楽として享受されてきたので、実際にはこの作品世界はそんなに突飛なものでは本来ないのかもしれません。
古代ローマからそれは延々と続いていて、公開処刑に関して云えば最近までタリバンは行ってもいました。
人は本質的にどこかに人の悲劇を楽しむ習性があるかもしれません。
ネット自警団のような存在が、私刑をする様を娯楽として享受している人はたくさんいますね。
そういう意味ではハンガーゲームはアメリカのショービジネス性の醜さの暴露に留まらず近代のヒューマニズムの浅はかさを暴いた作品でもあるとも云えるのかもしれません。
映画の中の富裕層のグロテスクな衣装が示す通りに、そんなものはフリークスですが、それが人間の本質の一部であることは否定できないのかもしれません。
おそらくカットニスはそれを否定していないのです。そうした性質を理解した上で、生き残るために巧みに利用しているように見えます。
少年少女を主人公にした作品なのに、この達観ぶり。恐ろしい。
しかしふと思いますが、グローバリゼーションがアメリカの仕掛けたゲームなのだとすれば、僕らもすでにそういうゲームをやらされているのかもしれないですね。
続編のレビューはこちら。
ハンガー・ゲーム2レビュー、ピータのヒロイン力が高すぎる件
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続編制作がすでに決定しているのですが、楽しみです。
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