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魔法少女まどか☆マギカ [新編]叛逆の物語レビュー。なぜ悪魔は世界に必要か。【ネタバレあり】

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【注意】ネタバレしてます。いろんな解釈のできる作品ですので、見る前に読んで、イメージが固定してしまうのもよろしくないと思われますので、そういう意味でも見た後にお読みいただくことをお勧めします。
魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語

旧約聖書によればこの世の万物すべては神が作ったことになっています。
「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」と書かれており、神が作った世界はことごとく素晴らしいものだったはずです。人間(アダムとイブ)も最初は汚れなき存在として神は作ったのですが、悪い蛇にそそのかされ禁断の果実を食べてしまい、人間はその結果うまれながらにして罪人となったとされています。これが原罪ってやつですね。

常々不思議だったのですが、全能の神がこの世の全てを創ったのなら、アダムとイブをそそのかした蛇(サタン)を創ったのも神ということになります。そもそもそんなものを作りさえしなければ、人間は罪を背負うこともなかったはずなのに、どうして神は悪魔を創ったのでしょう。そのことは聖書は説明していませんね。余談ですけど、むかしフランシスコ・ザビエルが日本に宣教師として来日したときに同じ質問を当時の日本人からされて答えるのに苦労したという話もあるそうです。(ザビエルも困った「キリスト教」の矛盾を突く日本人
「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった」と創世記3章にも書かれていますが、この悪を象徴する蛇は「狡猾さ」を象徴するイメージとしてもよく用いられます。

前作でまどかが神となって新しい秩序を持った世界(魔法少女が死ぬと、消滅して円環の理に導かれる世界)を創りあげ、魔法少女たちの運命を救った物語なら、今作は悪魔の誕生の物語。悪魔となるのはあのほむらです。悪魔、それは魔女以上にこの世に厄災をもたらすもので、この世の理を蹂躙するもの。ほむらはまどかが創った世界の理を一部切り取ってしまいます。
見る前は想像もしなかった結末ですが、彼女が悪魔になる決意をするのはなぜかがドラマとして強い説得力を持って描かれていて、神話のような物語を人間ドラマの延長上にしっかりと描けていて、スケールアップに無理を感じさせないストーリーの運び方は見事。まさに人間関係の「因果」の果てに結末が訪れていて、大変見ごたえある作品でした。

物語は5人のお馴染みの魔法少女が力を合わせて戦う世界から始まります。ナイトメアという新たな敵を倒すため5人の魔法少女<ピュエラ・マギ・ホーリー・クインテット>を名乗り抜群のチームワークで戦う世界(変身シーンがものすごいカッコいい)。しかし、歩く水面に映るに5人が通学する様子をとらえたシーンでほむらだけが違和感を感じ始めています。杏子の協力でおかしいことを突き止めたほむらでしたが、実はこの世界は魔女化したほむらの創った結果の世界。彼女の絶望はまどかが身を挺して救いをもたらしたこの世界に、だれもまどか(神)を覚えていないこと。そして自分だけが覚えているまどかの記憶すら、自分が作った妄想に過ぎないのでは、と自らの信念が揺らいだこと。

ここでまどかがほむらに慰めに言ったことが、決定的にほむらの心に響きます。ほむらでさえ泣いてしまうようなつらい体験、自分なら我慢できるはずがない、という「人間まどか」の言葉を聞いて、自分がまどかにかけた「因果」の重さと、魔法少女になることを止められなかった自分を責めてしまう。
そして、円環の理を解明し、支配すべく魔女化しかけていたほむらを実験台に使っているインキュベーターに対し、二度とまどかに触らせまいとして完全な魔女として、その幻想の結界内で魔女となるほむら。
こうしたほむらの危機に救済の突破口をひらくのは、自らも絶望して、魔女になったことのあるさやかとなぎさ(ベベ)。絶望を知る者が絶望している人に対して一番やさしくなれる。5人が仲良くすごす「この世界は本当に悪いものなのか、よく考えてごらん」と猶予を与える彼女は、魔女化した本人がだれよりもつらい思いをしたのを知っています。円環の理に導かれたさやかもまた、杏子を置き去りにしてしまったことが心残りとなっていたので、こうして5人そろって仲良くできる世界をどこかで歓迎しているのでしょう。さやかだけでなく、マミさんもこれがかつての私が望んだ世界なのかも、と言っています。ほむらの創った幻想の結界の世界はあの5人にとって実は理想的な世界でもあります。それでも真相がわかったらそこに留まることをよしとする人は誰もいないという意思の強さが胸を打ちます。

魔法少女たちの協力によって、幻想を打ち破り、円環の理に導かれるはずだったほむらは、「人間まどか」を円環の理の役割から解放するため理に干渉し、それを切り取る「悪魔」となります。そして世界が再び創り変えられます。寂しいという本音を隠して、魔法少女を救い続ける役割からまどかを引きずりおろし、何もかもを元通りにしてしまいます。第一話の転校のシーンはまどかが転校生となる形で再現され、杏子もすでにクラスメイト。
同じはずだけど、少しずつ違う世界。

ほむらが悪魔になった理由は、ただ1つまどかのため。前作彼女はまどかが身を挺して救った世界を守るため戦い続ける覚悟を決めました。今度はまどかを救うためにまどかの創った世界に干渉して創りかえます。真逆の行動がともにその動機は同じ。
人間というのは理不尽な生き物だとつくづく思わされます。きゅうべえの言うとおり。わけがわからないし、危険すぎる存在かもしれません。

しかも、この行動は神になったまどかでさえできなかった、インキュベーターに人間から手を引かせるという結論を引き出しました。(ほむらが利用するために留めたようですが)神ができなかったことを悪魔がやってのけてしまいました。

人間に戻ったまどかには、まだ神の力の痕跡が残っています。そのまどかを見て、ほむらは「この世界の秩序が愛しいと思うか」と質問します。まどかは「自分勝手にルールを創りかえるのは悪いことだと思うよ」と返します。誰よりもさみしがり屋な彼女には、まだそうした他者を思いやる気持ちが強く残っています。寂しさに耐えきれない彼女も本物。でもそれでも他者を救うために勇気を持って正しい行動をできるのも彼女も本物。

いずれ敵同士になるかもしれない、と言い残しほむらはまどかとの絆の証だったリボンを返します。

神と悪魔はいずれ対峙することになるのでしょうか。

この作品世界の中での悪魔の誕生理由は、神であるまどかへの愛であるとされます。思えばこれまでのほむらの行動は全てまどかのためでした。魔法少女になったのも、幾度も過去をループしたのも、創り変わった世界を守ると決めたのも、絶望して魔女になるのもすべてまどかのため。悪魔になった理由も同じ理由。表に出てくる行動こそ真逆であるのに、ほむらは一切ブレていないのですね。おそらくこれからも彼女は、「いずれ敵同士」になってもブレないのでしょう。

神(まどか)が救ってくれたことを誰も知らない世界が産み落とした悪魔(ほむら)。この構図はなぜ悪魔が世界に存在するのか、という問いに一つの納得のいく仮説を提示しています。
救済が価値あるものとして存在するには、世界に災いがなければいけない。災いがなければ救いが必要となれません。よって神は必要ありません。厄災をもたらす存在があるから救済を与え得る神の存在は重要です。
人々が神の存在を忘れずにいるには、悪魔の存在があればこそ。悪なくして善は引き立たず、その逆もまたしかり。善と悪は相互補完的な関係性にあるのかもしれませんね。善悪二元論の深さはこの部分にあって、善を成り立たせるために悪は存在し続けなければならないのです。(あるいは悪を仕立て続けなければならない)

悪魔の役割を引き受けたほむらは、神の力を持つまどか(しかし本人はそのことをうっすらとしか覚えていない)にいずれ敵対することを示唆して物語は幕を閉じます。

かくして神と悪魔の出そろった世界が出来上がり、おそらくは悪魔が災いをもたらし続け、神がそれをいさめるという堂々巡りが展開するのでしょう。まるで現実の人間の世界みたいに。
現実はまさに「希望と絶望の相転移」ですね。

この後、ほむらは悪魔としてまどかと敵対し、それ故にまどかを誰よりも輝かせる存在になるのかもしれません。映画はそこまで描いていませんが。

テレビシリーズとその総集編だった2012年の劇場版の完成度が大変すばらしかったので、正直今回の続編は蛇足となり、ファンサービス的要素の強い作品になるのかも、と鑑賞前は少し心配していましたが、全くそんなことありませんでした。
蛇足感は一切なく、前作と対をなすような内容でいて、ぶれずにまどマギの世界観を深化させる作品となっていました。
アニメーションの完成度も極めて高く、特にほむらVSマミさんの戦いはここ数年の映画のなかで屈指の銃撃バトルでは。

すでに2回観ましたが、前作に続き何度観てもいいと思える作品です。見るたびに違う発見・解釈があるだろうなあ。

前作のレビューはこちら。
時代を刻印した傑作。映画レビュー「劇場版魔法少女 まどか☆マギカ」