ハンナ・アーレントの提唱した「悪の凡庸さ」は、20世紀の政治哲学を語るうえで大変な重要なものです。人類史上でも類を見ない悪事は、それに見合う怪物が成したのではない、思考停止し己の義務を淡々とこなすだけの小役人的行動の帰結として起こったとするこの論考は、当時衝撃を持って受け止められました。凡庸な人間がそうした悪に鳴り得るということは、人間は誰でも思考を放棄すればアイヒマンのようなことをしでかすかもしれない。その可能性を考えるのは怖い。なので人はその可能性に眼をつぶり思考停止してしまいたくなる。しかし「悪の凡庸さ」が突きつけるのは、人間と非人間と分け隔てるのは思考することであるとします。
映画「ハンナ・アーレント」は、アーレントがアイヒマン裁判を膨張し、「エルサレムのアイヒマン」を発表し、ユダヤ人の友人やコミュニティから非難されても、思考を止めずに主張を続ける彼女の姿を通じて、思考することの重要さを訴えます。アーレントを知らない人、エルサレムのアイヒマンを読んでない人にとって非常にわかりやすい内容で、なぜ悪の凡庸さが今日にいたるまで重要な論考なのかが実感を持ってわかります。
批判者はアーレントの何を批判していたか
映画は、アイヒマンが南米でモサドに拘束されるところから始まり、アーレントがエルサレムに渡りアイヒマン裁判を傍聴(実際のアイヒマンの裁判の映像を多く使用)、エルサレムのアイヒマンを上梓し、多くの非難を浴びながらも自説を丁寧に説明し続ける姿を描きます。彼女の思考を捨てない信念に胸が打たれるとともに、今日の日本の様々な問題を考える上でも参考になります。
アーレントのニューヨーカーへの寄稿記事に対する批判のほとんどは、彼女がアイヒマンの擁護者であるというものでした。しかし彼女はアイヒマンの罪を人類に対する罪を犯したのだ、と主張しています。ではなぜ批判者は彼女をアイヒマンの擁護者だと言うのでしょうか。
映画の中でもニューヨーカーの編集長は掲載前に危惧しているシーンがありますが、それは彼女の文全体の結論ではなく、この一点のみを取り上げているにすぎません。それは「ユダヤ人指導者の中にもアイヒマンに協力した者がいた。それによってユダヤ人の犠牲が増えた」という記述です。
この記述はなぜ必要か。まずそれが裁判で明らかになった事実であるからというのが1つ。そしてナチスは加害者側にアイヒマンのような思考停止的な非人間を量産してしまう罪とともに、被害者側のモラルの崩壊を引き起こしたのだ、という主張を展開するためでした。思考停止とモラルハザードを呼び起こすナチスの罪はユダヤ人に対してのみならず、人類に対する罪であったと彼女は主張します。全体を読み考えれば彼女が単にアイヒマンを擁護などしていなことはわかるはずですが、批判者はそれに気づきません。そこにアイヒマンのように上からの命令をただこなす思考停止とは別の思考停止マインドが描かれます。映画は徹底して、思考することの大切さを描き、それを貫くアーレントの意志の強さを描きます。
アイヒマン裁判は公正な裁判であったのか
アドルフ・アイヒマンはアルゼンチンでイスラエルの諜報部のモサドに捉えられます。この逮捕劇はアルゼンチンの国家主権を無視した形で行われ、その事自体大きな問題になりました。そしてアイヒマンを裁く法廷はエルサレムとなりましたが、そもそもなぜイスラエルには彼を裁く権限があるのか。アーレントにはここにも激しくメスを入れています。実際、アイヒマン裁判はエルサレムの地裁で開催されています(劇場を改築したらしい)。イスラエル国内(当時はないから当然だが)で起きた事件ではないホロコーストの責任をなぜイスラエルの一地方裁判所が裁けるのか。戦争裁判は時に公平さを欠き、加害国を裁く儀式やショーとしての意味で開催されます。アイヒマン裁判しかり、東京裁判しかり。アーレントがすごいのはその正当性を自分も抑留キャンプに収容された経験を持つ被害者側の立場からこの主張をできたこと。元々シオニストでもある彼女、この主張をするのはポジショントーク的にはあり得ないことでしょうが、だからこそ彼女がいかに思考する人間であるのかよくわかるエピソードです。
しかし、公平な裁判ではないからと言って、アーレントは裁判の結果が無効であるなどとは言いません。映画の中でもアイヒマンは死刑は妥当であるとも言っています。それは彼女自身もユダヤ人であることからくる心情的なものか、成熟した思考に裏打ちされたものによるものかは映画では描かれません。しかしアイヒマン裁判はイスラエルの国家基盤を形成する上で重要な機能を果たしたことは確かです。
映画の中でも少し言及されていますが、当時のイスラエルの中には、とりわけ若い人の中にはホロコーストで生き延びイスラエルに移住してきた人々を闘わなかった腰抜けとして見下す風潮もありました。右派の政治家もドイツからの賠償を受け取ることは誇りを金に変える行為として批判する声もあったほどです。当然国家として生まれたばかりのイスラエルには満足なリソースはないのでドイツからの賠償金は国益を考えると必要なものでしたが、ホロコーストの位置づけがしっかりと総括されていない状態だったので国内では多くの議論がありました。そういう状態の時にアイヒマン裁判は行われました。この裁判はイスラエルの国民意識を変え、ユダヤのアイデンティティを強化する機能を果たしたと言えるでしょう。(参考リンク)
あの裁判の結果が妥当であったとしても、正当性のない妥当さである、ということを忘却して正義だったと勘違いするのはあまり良くないでしょう。こうした捩じれた正当性に足下を救われないようにするためにも思考を止めてはいけない。この映画の教訓はそういうことでしょうね。
日本にも捩じれた正当性をめぐる歴史があります。単純に不当だ、と吹き上がるのではなく何が重要か思考することの大切さは2014年の現在、より強く求められているかもしれません。
※アイヒマン裁判の映像はYouTubeに公式に公開され、その全てを見ることができます。
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