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クリント・イーストウッド最新作『陪審員2番』レビュー:目隠しされた正義の女神が問う、真実とは

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クリント・イーストウッドの最新映画『陪審員2番』は、結局映画館での公開はなさそうな雰囲気であるが、大変に素晴らしい傑作だった。

見事な脚本運び、的確なキャスティング、過不足ないカッティングとテンポ感でまったくだれる瞬間がない。何も派手なことは仕掛けないが、いちいち演出が的確なのがすごい。しかも、全編に気負いなくさらっと撮られている感じがすごい。大きな予算も仕掛けもなくても、脚本を練り上げて、的確なフレーミングをして、イメージにあうキャストを配役すれば、映画は面白くなるのだと改めて見せつけている。94歳にこの冴え、驚くほかない。

 

真犯人は陪審員の男?

本作は、とある事件をめぐる裁判に関する物語だ。激しい雨の降る夜、ケンダル・カーターという女性が橋の下で死亡しているのを発見。容疑者としてカーターの彼氏で、元ギャングの一員と思しきジェームズ・サイスが浮上し、裁判にかけられることになった。

主人公は、その裁判の陪審員となったジャスティン・ケンプ(ニコラス・ホルト)。彼には妊娠中の妻がおり、危険な出産になりそうでついていてあげたいので、陪審員に選ばれたくなかったが、選ばれてしまった。

仕方ないかと思いつつも、裁判には人の人生がかかってるので、しっかりやろうと一応は意気込んでいるジャスティンだが、陪審員席で事件の詳細を聞いて、何か自分の記憶とリンクする内容を見つけてしまった。

事件はカーターとサイスがバーで口論したことがきっけで起きたという。ケンカしえカーターが激しい雨が降る夜の中、歩いて帰った。辺りは真っ暗なうえに雨のせいで一寸先も見えない。ジャスティンはその日、同じバーにいたことを思い出した。そして、その日の帰りに「鹿」のような何かにぶつかったことを思い出した。しかし、視界が悪すぎて何にぶつかったのかわからなかった。ジャスティンは、多分鹿だろうと思い、帰宅の途に着いた。

「もしかして、あれは鹿ではなく人だったのか?」と、ジャスティンは考えるようになる。仮に今、裁判にかけられているサイスは無実で、自分が真犯人だとしたら、妻とこれから生まれてくる子どもはどうなるのか、しかし、このまま何食わぬ顔で無実かもしれない男を終身刑にしてしまってよいのか、ジャスティンは思い悩むことになる。

サイスの容疑については、証言者はいるが信憑性にかけ、決定的な証拠が出ていない。このカップルはケンカは日常茶飯事だったという。だから、今回のケースもいつものケンカだったのかもしれない。しかし、サイスには前科があり、凶悪なギャンググループにも属していた過去があるらしい。いわゆる「フダツキ」のワルというタイプだ。

陪審員の議論では「サイスは有罪」が優勢だ。しかし、ジャスティンは良心が咎めたのか、無罪を主張。元刑事の男(J.Kシモンズ)も事件を怪しみ独自の調査を開始するが、陪審員は検察と弁護士の提示した内容を元に判断を下さなければならず、独自調査は禁止されている。それがバレて、元刑事の男は陪審員を降ろされる。しかし、彼が入手した資料には、ジャスティンが真犯人かもしれないことを強く匂わせる証拠があった。車の修理記録だ。

保身か正義か、ジャスティンの心は揺れる。そんな中、サイスを犯人を決めつけて疑っていなかった検事のフェイス・キルブルー(トニ・コレット)は、別に犯人がいる可能性を感じ始め、捜査を開始する。

一方、陪審員の議論は結論が出ずに、全員で事件現場の見学に行くことに。果たして、サイスは有罪となるのか、無罪となるのか、ジャスティンは最後にどのような決断を下すのか…。

目隠しする正義の女神、視界不良の中運転したジャスティン

映画の冒頭、公正な司法を象徴する天秤を持った正義の女神像が写される。目隠しをしているのが特徴のこの像は、見かけにとらわれずに偏見を持たず、お金や権力にも左右されずに公平に真実をジャッジするということを象徴している。

その次のカットは目隠しをされているジャスティンの妻だ。ジャスティンが子ども部屋をサプライズで用意してそれを見せようとしているのだ。

目隠し、つまりブラインド状態はこの映画のキーポイントだ。見ること、見えていないこと、見ることで判断が曇る人もいれば、見ることで何かを悟る人もいる。

ジャスティンが事件の夜、車を運転していた時には激しい雨が降っており、前が充分に確認できないような状態だった。彼は何かを轢いた感触はあったが、外に出ても何も見つけられない。「鹿の飛び出し注意」の看板が見えたので、鹿にぶつかったのだろうと推察した。この時の彼は、視界不良の「ブラインド」状態だった。それゆえに自分が犯したかもしれない真相がわからなくなった。

イーストウッドの巧みなポイントは、観客にも真相を見せていないことだ。観客も実は、ブラインド状態に置かれている。なんとなくジャスティンが轢いたのでは、という前提で物語が進んでいるが、実は断定できる情報は提示されていない。

裁判で証言をする唯一の目撃者は、サイスがやったという。だが、後に話を聞いてみれば、どうやらはっきり見たわけではなかったことがわかる。孤独に暮らす老人は、社会の、人の役に立ちたくて証言することを決めたという。明らかにバイアスがかかっている。

トニ・コレットは、サイスが犯人じゃないと思い始めるのは、本人と謁見してからである。じかに自分の目で、サイスと一対一で対峙して彼の目を見て話して、初めて別の可能性を考えるようになった。ここでは、直接見ることでわかることがある、という主張がある。

陪審員たちの議論は平行線をたどり、異例と言える事件現場の見学時間が設けられる。目で直接現場を見ることでわかることがあるかもしれない、ということか。

陪審員は有罪か、無罪かを判定すれば仕事は終わりで量刑の言い渡しまで付き合う必要はない。しかし、ジャスティンは量刑判決をわざわざ自分の目で見ようと傍聴に向かう。

正義の女神は目隠しをしているが、見えてしまうことで判断が鈍ることがある一方で、見えないことで判断を間違うこともある。観客に最後まで真相を明かさない展開が見事で、痛烈な葛藤を見る人にも突き付けてくる。

最後のシーンでインサートされる、正義の女神が持つ天秤が揺れているのが、強く印象に残るだろう。ジャスティンの心は正義によって揺れる、観客も同様の感覚を味わうことになる。

ニコラス・ホルトの「バツが悪そうな」顔

本作はまず、脚本が素晴らしい。脚本はジョナサン・エイブラムズという人で、テレビや舞台で脚本を書いていた人らしい。長編映画はこれが初めてっぽい。ジャスティンはかつてアルコール依存症だったという過去があるという設定が効いている。彼は当日、1人でバーにいたのだが、その時、酒を飲んで飲酒運転だったのかどうかも、映画では大きなポイントとなる。そして、保身も考えながら、悪者になりきれない彼の陪審での主張が事件を混迷させていくが、その心理が非常にわかりやすく提示できている。

このジャスティン役を演じたニコラス・ホルトが出色だ。いつも泣きそうな顔をしているのが印象的で、なんというか、常に「バツが悪そう」なのだ。「こいつ、何か隠しているのでは」と思える表情が映画全体のサスペンス性を劇的に高めている。

トニ・コレット演じる検事やJ.Kシモンズ演じる元刑事もいい味を出している。検事総長の選挙を控えたトニ・コレットは、この裁判を負けるわけにはいかないという状況だ。サイスがいかにもな悪人風なツラなこともあってか、陪審員でも犯人だと絶対に信じる人がいるのもリアル。人は信じたいもの信じる生き物だ。
 

本作は芥川龍之介の『藪の中』に通じるタイプの作品だ。真相は「藪の中」ならぬ、「激しい雨の中」である。イーストウッドの作品では、『ミスティック・リバー』に近い雰囲気があるか。

近年のイーストウッド作品でも上位レベルだろう。大変に見事な作品。劇場公開してもっと多くの人に注目されるべき作品だっただろう。
 
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