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拭えない妙なズレ。映画レビュー「friends after 3.11」

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http://iwaiff.com/fa311/ より転載

公式サイト
http://iwaiff.com/fa311/

岩井俊二監督の作品は、読後感のさわやかな作品が多いですね。スワロウテイルはそうだし、花とアリスは青春映画ど真ん中みたいな作品だし、重たいお話であるリリイ・シュシュすら見終わった後、痛みを全部さらけ出して洗い流されたような感覚になれます。

写っている風景が重々しくなく、どこか異空間のようなテイストに仕上がるのが岩井監督の持ち味ですが、ドキュメンタリーである本作でも、その作家性が損なわれることはありませんでした。少女とどこかちょっぴり異空間。岩井映画に欠かせないこの2つの要素もしっかりあります。

さて、この「friends after 3.11」はタイトル通り、3.11を題材としたドキュメンタリーです。岩井監督が震災以降に出会った新しい「友人たち」と仙台出身の監督の現地の久しぶりに再会した「友人たち」とともに震災以降の日本を語った作品です。友だち、というミニマルな単位から日本全体を揺るがし続けているこの問題を考えようという意図なのでしょう。

まず最初に、僕が感じた違和感を一つ。
見終わった後、この映画について最も印象に残っているのは、藤波心ちゃんの涙だったり、渋谷の街頭で叫ぶように歌うFRYING DUTCHMANだったりするのはなぜだろう。荒れ果てた被災地も岩井監督の古い友人である被災者も映画の中には登場するにも関わらず、この映画は何でそういうものがあまり印象に残らないんだろう。

さらにもう一つ、「演出」の意図が不明な点を一つ。
岩井監督が被災地を訪れる際、藤波心ちゃんを同行させているのだが、わざわざ可愛い制服という「衣装」を着せたのはなぜなんでしょう。
あれは「衣装」ですよね?もしかして私服を全て洗濯してしまって、あれしか着るものがなかったんでしょうか。
岩井監督にとって、あれは未曾有の災害を経験した東北とそこの人々と向き合うのに必要だったんでしょうか。

作家性、と言ってしまえばそれまでかもしれませんけど、何かあきらかにズレているように思います。
しかしそのズレが、岩井監督独特の異空間的な映像を作っていました。
汚れ一つない白い制服を着せたアイドルを被災地に連れていくことで、自分の作家性を作り出すという手腕は大したものです。やはり一流の映画作家は違います。

※追記。岩井監督から藤波さんの衣装について、返信をいただきました。あれは監督自身の演出意図ではなかったということになります。
しかし、映画それ自体から僕が感じた違和感の一つでもあるので、あえて書き直しはしないことにいたします。

https://twitter.com/sindyeye/statuses/187933202948694016

 

この映画に登場する岩井監督の震災以降にできた友人は、
飯田哲也、岩上安身、上杉隆、鎌仲ひとみ、小出裕章、後藤政志、清水康之、武田邦彦、田中優、藤波心、山本太郎、吉原毅など。
この他、松田美由紀、小林武史、北川悦吏子、マレーシアの映画監督のタン・チュイムイなども出演しています。

皆さん原発に反対の立場の方々ですね。怪しげな人もそうでない人も混じっていますが。

岩井監督が、この友人たちと様々な対話によって、この映画は構成されているのですが、真っ当な主張や意見もあれば、中には荒唐無稽なものあったり、福島の人たちにとっては言葉の刃のようなものもあったり様々です。
ただ上記に挙げた友人たちは、割とみなさんビシッと明快に自分の主張を語るんですね。ただ2人、原子炉設計士の後藤さんと京大助教授の小出さんを除いて。

この2人も自分の主張や意見はもちろん述べていますが、その言葉には自責の念のようなものが滲み出ています。言葉よりも、言葉と言葉の間の詰まり具合が何かを語っているように思うのです。小出さんは、まるでヒーローと対面したかのような松田美由紀さんの態度に戸惑っているようにすら見えます。

その言葉の詰まりはどこからくるのか、本当はそれこそをもっと深く掘り下げないといけないんじゃないのかなあ、と思ってしまいます。
その2人とは対照的に武田教授や上杉隆氏は淀みなくよくしゃべります。普段しゃべる仕事をしているか、そうでないかの差だけなんでしょうか、これは。

映画の最後の方にFRYING DUTCHMANが反原発の歌をゲリラで歌うシーンがあるのですが、このシーンが10分くらいあったでしょうか、その長いシーンを1ショットで撮っています。手持ちカメラでクローズアップで追いかけるように(まるで釘付けになっているかのように)撮影されています。割と静かに進行する映画なのですが、このシーンだけカメラも手持ちで荒れているし、映っているものはパンクな叫びだしで最も印象に残ります。そういう風な編集の構成になっていますね。
この構成はどうなんでしょうか。被災地の光景よりも、被災者の証言よりも渋谷の街頭のパンクな反原発ソングが目立ってしまう。
これをどう捉えたらいいんでしょう。

5月に公開予定の「相馬看花 ―第一部 奪われた土地の記憶―」というドキュメンタリー映画があるのですが、その映画にも、ほんの数分ですが1シーン、東京でのデモのシーンがあります。一足先に観る機会があり、また監督の舞台挨拶もあったのですが、観客からデモのシーンを挿入した意図について、監督はこう答えていました。
「東京に電気を送るために作られた福島原発の事故のせいで、福島の人達は今大変な思いをしている。そうした人達を東京でデモをやっている人達はどれくらい考えているのか。デモの中でバンドが音楽をやりながら参加しているか、結局その音楽を演奏するために電気をたくさん使ってしまっている。そういう福島と東京の乖離みたいなものを描くため」と答えていました。

相馬看花の松林監督は、その乖離に自覚的です。しかし岩井俊二はどこまで自覚的だったのかわかりません。被災地よりもFRYING DUTCHMANに釘付けになり、作家性のため(かどうかはわからないが、結果的にはそうなっている)に「衣装」を着せてアイドルを被災地に連れて行く岩井俊二。なにかがズレているような気がしてならない。

このなんだかよくわからないズレは、もしかしたらいろんな所に見つけられるのかもしれません。瓦礫の受け入れ問題だったり、食物の安全基準だったり、原発再稼働の問題だったり。

いつものように読後感さわやかな作りになっているのに、このズレが頭から離れない。

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