阿部寛主演のTBS日曜劇場『キャスター』は、主人公の目的は半分達成されたようになったが、もっと大きな日本の歴史のねじれを提示して終わりを告げた。
やや、とっ散らかった内容だったことは確かだが、「日米核密約」にまで踏み込むテレビドラマは珍しい。その意欲は買うべきだ。
目次
国定と一ノ瀬をめぐる週刊誌スキャンダルの真相
前回、進藤壮一(阿部寛)はJBNの会長・国定義雄(高橋英樹)が自分の父・松原哲を殺したのだと結論付けていた。そして、その裏取りをすべき動き出す。
43年前の自衛隊機の墜落事件の現場に国定は松原と一緒に取材していた。しかし、そのニュースは一向に出ない。これは政府が隠蔽を図っていたのだと進藤は考える。
その頃、JBNは別のスキャンダルに見舞われる。ニュースゲートのプロデューサー、市之瀬咲子(宮澤エマ)は反社会的勢力の血筋だというニュースが週刊誌に掲載される。
さらに、国定が羽生剛官房長官(北大路欣也)を殺害したという情報が三流週刊誌に掲載される。進藤はニュースゲートに国定を引っ張り出し、真相を明らかにしようとする。
生放送での記者会見で国定が話したのは、驚くべき事実だった。国定は羽生官房長官を殺したのか。そうではない、この週刊誌の記事は犯人をあぶり出すだめに仕組んだと言い出す国定。そして、犯人は影山重工の会長(石橋蓮司)だった。
国定が語る事件の真相
会見後、国定は進藤を一対一になり、43年前の事件の真相を語る。3人の約束に国定は入っていない、それは松原と羽生官房長官、山井の父の3人で、この事件を明るみにしないことを約束したものだった。
なぜなら、自衛隊機が輸送していたのはプルトニウムだからだ。しかもそれは米軍基地に運ぶつもりだったらしい。非核三原則がある日本だが、裏にはアメリカとの核密約もあり、実際には国内に核が持ち込まれている。戦後の日本社会のスキームそのものを覆すようなスキャンダルであるため、羽生官房長官はこの事件を公にしないでほしい、自分が政治家生命をかけてこれを処理すると誓ったのだそうだ。清濁併せ呑む政治家像がここで示されている。
進藤はその話に納得したのではない。だが、真相の根深さは十分に伝わったようだ。結局、松原を殺したのも国定ではなkった。私欲を肥やそうとプルトニウム利権を独占しようとした影山重工の会長に殺されたようだ。
timelesz 寺西拓人が謎の男として登場、残された伏線
物語はこれで一応の完結を見たが、進藤の妻を狙ったのは影山重工ではないという。そして、足を引きずった不審な男がそのことに絡んでいるという。その男はtimelesz 寺西拓人演じる「謎の男」と連絡を取っているようだ。気になる匂わせをしてドラマは幕を閉じた。
しかし、結局ヒコロヒーはなんだったのか。本当にただの掃除の人なのか。結局、最後まで明かされることはなかった。
日米核密約とは何か
このドラマは様々な社会問題を取り上げてきたが、最後に核密約という大きな題材に挑んだ。繰り返すが、その意欲は買うべきだ。描き切れたかどうかは別としてだ。
日米核密約とは、日本政府が公に否定してきたにもかかわらず、米国の核兵器が日本国内に持ち込まれることを秘密裏に容認した日米間の合意または了解である。
第二次世界大戦終結後、日本は米軍の占領下に置かれ、多数の基地が設置された。1952年の独立回復後も、これらの米軍基地は日本の主権下で維持され、米国の対日戦略の中核を担うこととなる。冷戦の激化は、米国が日本をアジアにおける反共の砦として再建する動きを加速させた。これにより、米国は日本国内での核能力を含む軍事作戦の柔軟性を強く求めるようになった。
1951年締結の旧日米安全保障条約は、米軍に広範な行動の自由を認め、日本の監督が不十分な「不平等条約」とみなされていた。この国内批判の高まりが、1960年の安保条約改定へとつながっていく。
密約は、日本が1967年に国是とした「非核三原則」(核兵器を〈持たず〉〈作らず〉〈持ち込ませず〉)のうち、「持ち込ませず」の原則を直接的に骨抜きにした。公には核兵器の持ち込みを許さないと表明しながら、実際には秘密裏に米国の核兵器持ち込みを黙認していたのである。
長年にわたる密約の存在と政府による否定は、日本の外交政策における透明性の欠如を露呈させ、民主的統制に対する深刻な疑問を投げかけた。これは、国民の政府に対する不信感を深める結果となったのである。
成立と変遷:核密約はいかに形成されたか
日米核密約は、1960年の安保条約改定と1972年の沖縄返還という、日本の戦後史における二つの重要な節目において形成されたと言われる。
1951年の旧日米安全保障条約は、在日米軍の行動に条約上の制限を課しておらず、米軍は日本の領土への核兵器持ち込みや、在日米軍基地から他国への作戦行動を自由に行うことができた。この対米従属的な関係への批判が高まる中、岸内閣は「独立の日本にふさわしい対等な安保条約」を目指し、条約改定を推進した。改定の目玉は「事前協議制度」の導入であり、これは米軍の重要な配備変更や装備変更、日本からの戦闘作戦行動に日本の発言権を確保することを目的としていた。
特に、核兵器の持ち込みに関する発言権は、広島・長崎の悲劇に加え、1954年の第五福竜丸事件によって国民の間に核兵器に対する強い拒絶反応が根強く存在したため、極めて重要視されたのである。
改定交渉の公表された成果は、1960年1月19日に調印された「安全保障条約第6条の実施に関する交換公文」(岸・ハーター交換公文)である。この公文は、「合衆国軍隊の日本国における配備の重要な変更、同軍隊の装備における重要な変更並びに日本国から行なわれる戦闘作戦行動…は、日本国政府との事前の協議によって行わなければならない」と規定した。この公表された合意は、日米関係が対等なパートナーシップへと進展した証として大々的に宣伝されたのである。
しかし、公表された合意と同時に、1960年1月6日、藤山愛一郎外相とダグラス・マッカーサーII駐日大使の間で「討議の記録(Record of Discussion)」と題する非公表文書がイニシャル署名された。この文書は、公表された交換公文の秘密の解釈を提供した。
「討議の記録」は、「装備における重要な変更」が「核兵器の持ち込み」(陸揚げして日本の領土に貯蔵・保管すること)を意味することを明確にし、これは事前協議の対象とした。しかし、決定的に重要なのは、同文書が「事前協議」制度が、米軍機や米軍艦船の日本領海や港への「進入(エントリー)」に関する「現行の手続きに影響を及ぼさない」と明記した点である。この「現行の手続き」という表現は、実質的に「これまで通り」を意味し、核兵器を搭載した艦船の寄港には事前協議が不要であることを意味した。
安保条約改定交渉は1958年9月に藤山外相の訪米から始まった。日本は当初、核持ち込みを含む米軍の行動に制限を課すことを目指していた。米国は、NCND政策を理由に、核搭載艦船の寄港は事前協議の対象外であると一貫して主張した。日本側は、国内の反核感情を考慮し、書面での証拠を残さずに米側の要求を口頭で受け入れる方針をとろうとしたが、米国は将来の日本政府をも拘束するため、この了解を文書化することを強く主張した。
最終的な妥協点として、「討議の記録」という形式が選択された。日本側は、この文書が「法的拘束力がないように見える」形式であると判断し、万が一漏洩した場合の国内政治的リスクを軽減できると考えたため、これを受け入れたのである。
この交渉過程は、公表された日本の「非核三原則」と秘密の合意との間に根本的な矛盾を生み出した。日本は公には「持ち込ませず」を掲げながら、秘密裏には核搭載艦船の寄港を黙認する形となった。これは、国内の反核感情を鎮めつつ、米国の核戦略上の要請に応えるための意図的な戦略的曖昧性であった。「討議の記録」は単なる解釈文書ではなく、公表された政策を迂回するためのメカニズムとして機能し、冷戦期の同盟における民主的説明責任と軍事的要求の間の深い緊張関係を示している。
また、この合意を巡る政府の対応は、長年にわたる組織的な欺瞞を生み出した。当時の外務省幹部である山田久就は、核搭載艦船の寄港が事前協議の対象であるという政府の公表された立場が「国会で野党の追及を避けるためのごまかし」であったと後に証言している。政府は、秘密文書の存在が国会で追及された場合、「嘘をつかなければならなくなる」状況に追い込まれたのである。このような度重なる否定と、米国公文書の公開による密約の暴露は、日本国民の政府の外交政策に対する深い不信感を招き、その後の安全保障政策や透明性に関する議論に長期的な影響を与えている。
沖縄の核基地としての特殊な地位
沖縄は、サンフランシスコ講和条約第3条により日本本土から分離され、長期間にわたり米国の直接統治下に置かれた。この特殊な地位により、米軍は沖縄の基地を核兵器の貯蔵を含む広範な作戦に自由に利用することができた。1972年の本土復帰まで、沖縄は世界最大の核兵器基地として機能していたのである。米国が機密解除した文書によれば、広島型原爆の数百倍の破壊力を持つ水爆や小型の核地雷など、19種類もの核兵器が沖縄に持ち込まれていた。ベトナム戦争中には核地雷の使用も検討され、1960年代には米兵が模擬核地雷を背負って読谷村でパラシュート降下訓練を行った記録も存在する。
沖縄返還交渉において、日本政府は沖縄の米軍基地を「核抜き・本土並み」とすることを目標とした。これは、本土と同様に安保条約の事前協議制度を沖縄の基地にも適用することを意味した。
しかし、1969年に締結されたとされる佐藤・ニクソン密約として知られる秘密合意が存在した。この密約は、沖縄返還後も、重大な緊急事態の際には米国が核兵器を沖縄に再持ち込み・貯蔵する権利を認めるものであった。この密約の存在は、佐藤首相の密使であった若泉敬氏が1994年の著書でその草案を暴露したことで初めて明らかになった。その後、2009年12月には、佐藤首相の遺品の中から両首脳が署名したとされる密約のオリジナル文書が発見されたのである。
この沖縄の事例は、1960年の核密約と同様の力学を反映している。公には「核抜き」を掲げながら、秘密裏には米国の戦略的要請に応じるという矛盾した政策がとられたのである。これは、日本の主権と民主的説明責任に関する核密約の根深い問題を、沖縄の特殊な歴史的背景の中でさらに増幅させるものである。たとえ返還時に核兵器が沖縄から撤去されたとしても、返還後の1975年に嘉手納基地に核爆弾が持ち込まれたことを裏付ける米軍内部文書の発見は、これらの秘密の了解が初期の形成以降も継続的に影響を及ぼしていたことを示している。
実際の核持ち込みの証拠(例:岩国、沖縄)
日本政府による長年の否定にもかかわらず、機密解除された米国公文書などから、核兵器が日本に持ち込まれた広範な証拠が確認されている。
- 岩国基地: 山口県の米海兵隊岩国航空基地には核兵器が持ち込まれ、核爆弾の組み立てを任務とする部隊が常駐していた。1979年の文書では、同基地の核兵器関連要員172人のリストが見つかり、核爆弾組み立て部隊の37人全員が核兵器を直接扱う権限を持っていたことが明らかになった。
- 沖縄: 前述の通り、沖縄は1972年の返還まで主要な核基地であり、水爆や小型核地雷を含む19種類の核兵器が持ち込まれていた。返還後も、1975年に嘉手納基地に核爆弾が持ち込まれたことを裏付ける米軍内部文書が発見されている。
- その他の事例: 1966年には岩国沿岸に米軍が核兵器を持ち込んでいたという指摘もあり、これは事前協議に関する合意に反するものである。
核密約は、戦後日本社会の「本音と建前」の二重構造の最も顕著な例といえる。日本社会のねじれを象徴するようなものであり、ドラマ『キャスター』は眼の前の事件を報じるばかりでなく、日本社会をいかに形成していくのか、長期的な視野にたって物事を考えて報道していくべきという姿勢を打ち出したかったのかもしれない。
このドラマに続編があるのなら、核密約と戦後日本社会の関係について掘り下げる姿勢もほしいところだ。