松本人志の映画に一般の映画と同じような体験を求めてもしょうがない。だったら他の映画を見ればいい、という話になるので。一方でテレビのお笑いと同じようなものを視聴したいのなら、わざわざお金を払って映画館に行く必要もない。映画なんだけど映画的な体験を求められない。かといってお茶の間のお笑いでは意味がない。
お笑い芸人としてのキャリアとセンスを築いた松本人志の映画作品を鑑賞に行く際は、このジレンマに向き合う必要があり、どういう心持ちで向き合ったらいいか葛藤する。
映画も、小説も、音楽も、漫画も、お笑いも、絵画も、超克も、全ての表現物を鑑賞したり、体験するにはある程度それらの文脈を知っていないと評価できない。キュビズムの絵画の良さをいきなり何の文脈もなしに理解できるかどうか。ノイズミュージックは文脈を知らない人には文字通りただのノイズだ。
この作品『R100』は、映画なので当然見る時に、自分の中にある映画鑑賞の知識と体験を動員して楽しもうと無意識にする。実際この作品の導入部は何か古きよきフィルム・ノワール的な匂いも感じさせる。
しかし、別の人にとっては「松本人志」という文脈でこの映画を見ようとするかもしれない。そうすると笑いのない前半部はいかにも退屈な作品と映るかもしれない。印象派の絵画を見に来たのに、アメリカンポップアートが出てきたら、やはり面食らって評価するのが難しくなるような、そんなズレが生じる可能性が松本作品には常にある。(むしろそういうズレを狙っているような節もある。)
16mmフィルム撮影による映像が、「映画っぽい」と感じさせる部分もあるが、音響もとてもいいし、前半は極めて「映画的」だ。メリーゴーランドを中心にして壁一面に女王様がいるあの一連のシーンは高い演出力を示していると思う。
映画デビュー作の「大日本人」のときは、大きな予算でやったコントをそのまま映画館で上映したような感じだったが、松本監督、随分と映画的なセンスを身につけたんだな、とワクワクさせられた。
しかし、後半は一気にその映画的に感性された作品世界がどんどん崩れていく。いきなり映写室が出てきてメタ・フィクション化するし、ものすごい荒唐無稽な展開は始まる。片桐はいりの役どころは完全にコント的。(でも映像は16mmの荒々しい映像。このギャップがすごい)
なので前半に得た映画的な展開を期待してその文脈でこの作品に接しようとした観客はここで裏切られる。あらかじめコントを期待していた客も前フリが長いと思い、「ああこれは映画なんだ」と思い始めた頃だったのでないか。
こういう文脈の混乱を狙っているのかはわからないが、日本の観客は必ずそういう混乱に陥る。これがお笑い芸人松本人志を知らない海外の観客にとってはそういう混乱は起きにくいので、素直に不条理映画と見れたりするのだろう。こういう評価の捻れは初期北野武映画にも見られた。実際松本作品は、海外のB級系の映画祭などでは評価する声もある。たしかに他のでは見られない感性があることは確か。
数年間寝たきりの妻を持ち、小さい息子と2人暮らしの片岡は、あるボンデージというSMクラブに入会する。そのSMクラブは日常生活の中で女王様が客を虐げるというシステムであり、町中で唐突にS嬢に責められる。その快感がたまらない片岡だったが、次第に職場や実家でもプレイが繰り広げられるようになってきて、恐怖を感じる。警察に言っても取り合ってもらえず、なす術のない片岡だったが、ある日家に押し掛けた女王が事故死してしまい、そこからクラブは全力で片岡を潰しにかかる。片岡が家族を守るために奔走するのだが。。。
というのが本筋のストーリーで、これが実は100歳の老映画監督の映画作品であることが途中で明かされる。実際の観客同様にプロデューサーや会社の連中が理解不能だと頭を抱える。老映画監督は、この映画は100歳を超えないと理解できなんだと言う。この映画のタイトル「R100」の由来だ。
実際意味不明な作品で、こういう方向に行くだろうという予想や期待をわざわざ裏切るように作っているように見える。良く言えば予測不能な展開で、悪く言うと支離滅裂な展開。映画かと思えばコント、コントかと思えばメタ・フィクション。
日本の観客は混乱するだろうが、とにかく松本作品にしか存在しない感性が多いに宿っている。賛否両論極端に別れるだろうが、唯一明らかなことはここまで強烈に個性が宿る作品を作れる人は今の映画界には世界中探してもそうはいないだろうということだ。
公式サイトはこちら。
映画『R100』公式サイト
分類分けすると、カルト映画なんですよね、松本映画は。でも日本だとビッグスターなので、全国公開になるんですよね。もうミスマッチはその次点で避けられないんだよな。
海外だとモンティ・パイソンやクローネンバーグなんかと比較してる人もいますね。コアな人向けの作品てことですね。