12月19日発売の僕の著書『映像表現革命時代の映画論』の解説第三弾です。
今回は「応用編」と題しまして、直接本の内容を語るものではなく、これからの社会を生きる上で、こんな風には役に立つかもしれないよ、というお話をしようと思います。
やや変化球な内容解説になるので、ストレートに本書がどんな本か知りたい方は、第一弾と第二弾の解説を先にお読みください。
AI時代のメディア・リテラシー
『映像表現革命時代の映画論』は、実写とアニメーションにかんする批評本です。実写とアニメーションの境がなくなりつつあることを積極的に肯定し、新しい時代の映画論を作ろうという試みです。ですので、社会批評本ではないですし、「〜する力」みたいな、昨今よくある生きる知恵系の本でもありません。もっぱら、映画の話です。
ただ、この本で僕が語った内容は、企図せず、社会の中にある映像に対する「ある漠然としたイメージ」に挑んでいる部分があります。
それは、「(実写の)映像が事実を写している」というイメージです。
実際に社会の中で、映像は記録メディアとして様々な場所で利用されています。日々のニュース映像も、それが事実であったことに意味があります。事実だからこそ、観る人のインパクトを与え、世界の現実を伝えるメディアとしての地位をこれまで築いていきました。
一方でアニメーションには、事実だという社会的な認識はないでしょう。当然ですよね。日本では、アニメーションと言えば絵で描かれたものが多いし、絵じゃなかったとしても、人形とか粘土のキャラクターと動かしたりと、現実では動かないものを動かしたりしますので、すぐに事実じゃないとわかります。
本では「コマ撮り」をアニメーションの要件として書いていますが、コマ撮りは動きを「創造」するもので、「記録」じゃないわけです。実写は記録、アニメーションは創造。シンプルにそのように社会の中で認識されてきたと思います。
しかし、僕の本は、実写とアニメーションの境界が失われきたことを証明する内容です。それがどういうことなのかは、詳しくは本を読んでいただければと思いますが、僕の本は「実写とは記録である」という漠然としたイメージを覆そうとしています。
それはデジタル化の影響とは切っても切れない事柄なのですが、今日、社会には「現実に擬態」した映像が溢れています。ハリウッドの大作映画の背景なんかは本物の街に見えても精巧に3DCGで創造されたものです。
その変化は映画に限った話ではなく、ディープフェイクと呼ばれる「現実に擬態」した映像が社会的な問題となっています。今年は岸田首相のフェイク画像を作った人がニュースになっていましたね(あれはあんまり出来が良くなかったですけど)。そうした映像は戦争プロパガンダにも使われるようになってきました。
映像の訴求力はなぜ強いのか。それは動いているものに人は惹きつけられるから、という原初的な理由もあるのですが、やはりそれが「事実」であるからこそ強く訴える力があるとも言えるでしょう。戦争の話でいれば、戦場の悲惨な映像が事実だからこそ、「これはなんとかせねば」と思わせる力が強いうわけですね。フェイク動画は、そこにつけ込んだものと言えます。
だから、今の世の中では情報を精査して注意深く扱わねばなりません。文章もそうですし、写真や映像も同様です。そういう時代に、「実写とアニメーションに違いはない」という認識は、映像の真贋に振り回されないで生きるための必要なリテラシーの基礎となると思っています。 全ての映像は大なり小なり「創造」されているのだと認識する、その上で映像を様々な視点で精査しながら見極めていく。映像を最初から「事実の記録」だと思って接しないほうがいい時代になると、僕は考えています。
とりわけ、生成AIの急速の発展はその流れを加速するでしょう。だからこそ、直接の言及はないにせよ、この本の最後の章はAIをテーマにして締めくくろうと思いました。
このような議論自体は、本書の中には直接含まれていません。しかし、実写とアニメーション批評を通じて映像の事実性を考え直し、これからの時代にどう映像に接していくべきか、その一助になれるかもしれない、本書を書きながら、そんなことを考えていました。
ぜひ、『映像表現革命時代の映画論』を読んで、そのような感覚を養っていただけたら嬉しいです。
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