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『劇場版 PSYCHO-PASS サイコパス PROVIDENCE』の常守朱さんについて書きました

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 シネマズPLUSに、『劇場版 PSYCHO-PASS サイコパス PROVIDENCE』の常守朱さんの生き方について書きました。

 『劇場版 PSYCHO-PASS サイコパス PROVIDENCE』“常守朱”が教えてくれる、AI時代の気高い生き方 | CINEMAS+

 常守朱さん、大好きなんですよね。全アニメキャラクターの中でもとりわけ好きなキャラクターです。彼女のかっこよさ、気高さ、強さみたいなものについて、いつか書きたいなとずっと思っていました。これが最後の作品になるでしょうから、これが最後のチャンスだと思って編集部に提案しました。

 このシリーズは、法とはなにかについて本当に深い思索がある作品で、これからAIが社会にどんどん入り込んでくる時代に、人がどう生きるべきか、人の法が何をできるのか、教えてくれる重要な作品になっているのではと思います。常守さんがそれを一身に体現しています。本当に完成度の高い、傑出したキャラクターだと思います。

 原稿は、時流を踏まえてAIと法と人、みたいな方向性で書きました。
 
 
 以下、原稿作成のメモと構成案。
 
 
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常守の生き方とAI時代

AIを神のようにあがめる悪役

自らが決めることを是とする常森

法が人を守るんじゃない、人が法を守るんです。

法とは何かについての物語だった。

今回、常森が最後に起こす行動は、まさに法を守るための行動。AIという新技術によって人が長い時間かけて協議してくる法律はいらなくなるのか、そんなことはない。人が決めること、その願いの集積である法は必要。その必要性を身をもって示すのが今回の常森。

常森は最後までブレない。
 
 
メモ

しかし、それでも、いまだ法学は「科学性」を手に入れたとは必ずしも言えません。例えば、契約の成立に意思理論を持ち出すことが「必然」なのか、あるいは、罪刑法定主義は「必然」なのか、民事不法行為法や刑事実体法において「責任主義」が「必然」のものなのかは、まさに一定の命題を「受け入れられる」かどうかにかかっており、そこから回答が決せられるものです。唯一無二の真理などない。ただあるのは、法実践の集積のみです。その法実践もまた事実ではあるけれども、真理ではありません。神学としての法学 | とある法学徒の社会探訪

刑法における現在の東大学派の祖ともいうべき小野清一郎博士は「法は基本的に倫理的なもの、倫理によって底礎されたものである」と明言しました(例えば、「法の美学」『刑法と法哲学』(有斐閣・1971)15ページ)。そして、小野博士はその倫理が歴史的・文化的なものであり、風土的・時代的にその内容を異にしているとして、普遍的なものであることを否定しています。神学としての法学 | とある法学徒の社会探訪

法は変えられるのが聖書とは異なる。私たちの意思で変えられるもの。守るもの、変えるもの、従うべきものを自分たちで選んできた歴史が法。
 
 
常森のここまでの軌跡と考えを追いかけることで、これについて言及する?
 
 
一期

劇場版

二期
それぞれでの活躍を振り返る。
 
 
Thesis

AI時代に人はどうあるべきか
 
 

Point3つ

法とは何かを巡る物語

常森さんの軌跡、常森とシビュラのこれまでの歩み

日本と世界との関わり方の物語でもある

常守朱 (つねもりあかね)とは【ピクシブ百科事典】
 
 

Intro

AIが実社会の大きなインパクトを与える時代がいよいよ到来

これはあらゆる業界にとって他人事ではないはず。

AIとの共生時代をサイコパスは描き続けてきた作品。

主人公の常森さんの生き方は、僕にとってAIとともに生きる人の理想形。
 
 
Body1 常森とシビュラのこれまで

1期

シビュラを信頼していた初期から、その実態、犯罪者の脳を集めて並列処理をしている実態を見て、愕然。しかし、それが合理的な運用方法であることも理解する。社会における必要悪的なものとして認めつつも、全てを渡さず対峙する姿勢を見せる。

2期

シビュラと唯一と言っていいほど対等に接する存在として精神的にも大きく成長している。

2期ではシビュラに集団のサイコパスを計測可能にアップデートを要求するように。シビュラの意思ではなく、今を生きる人間の意思でシステムを運用していく姿勢を貫いている。
 
 

Body2 アップデートされ続けるシビュラシステム

時代に合わせてアップデートしていくのが特徴的。最初から全能を示さない点が面白い。

あらゆるシステムはそういうもの
 
 
Body3 法とは何か

神学と法学の比較

しかし、それでも、いまだ法学は「科学性」を手に入れたとは必ずしも言えません。例えば、契約の成立に意思理論を持ち出すことが「必然」なのか、あるいは、罪刑法定主義は「必然」なのか、民事不法行為法や刑事実体法において「責任主義」が「必然」のものなのかは、まさに一定の命題を「受け入れられる」かどうかにかかっており、そこから回答が決せられるものです。唯一無二の真理などない。ただあるのは、法実践の集積のみです。その法実践もまた事実ではあるけれども、真理ではありません。神学としての法学 | とある法学徒の社会探訪

刑法における現在の東大学派の祖ともいうべき小野清一郎博士は「法は基本的に倫理的なもの、倫理によって底礎されたものである」と明言しました(例えば、「法の美学」『刑法と法哲学』(有斐閣・1971)15ページ)。そして、小野博士はその倫理が歴史的・文化的なものであり、風土的・時代的にその内容を異にしているとして、普遍的なものであることを否定しています。h神学としての法学 | とある法学徒の社会探訪

アップデートされ続けるシステムは法に似ている。

聖書は書き換えが起きないという点で、法とは異なる。

シビュラは神の宣託のように感じられるが、聖書よりも法典に近い、法ならば人の意思で運用し守らねばならない。

法とは何かを問う物語であるのがサイコパス。

だから常森さんは「法が人を守るんじゃない、人が法を守るんです。」と言う。

これは、法律を守って規則正しく生きましょうというレベルの話ではない。

この後の常森の台詞を引用する、一期21話の台詞。人の願いの集積だ。

この願いの集積を誰かに、何者かに明け渡すべきじゃない。
 
 
Body4 ドミネーターには引き金がある。

最後に執行を決めるのは人間であるということ。

常森さんは、最初から自分の意思で引き金を引ける人間だった。

人が法を守る。これを徹頭徹尾実行し続けた。

初志貫徹、一貫してブレない圧倒的にカッコいい主人公だった。

常守は、シビュラについて感情的反感と理論的評価を抱いている

それでも、現状と法典が乖離し出せば、それを整合するように改正や新設が検討されるのであり、決して動くことのない聖書とはその点で趣を異にするのです。

悪人を裁けず、人を守れない法律をなんでそうまでして守り通そうとするんだ?

法が人を守るんじゃない、人が法を守るんです。

これまで悪を憎んで、正しい生き方を探し求めてきた人々の想いが、その積み重ねが法なんです。それは条文でもシステムでもない、だれもが心の中に抱えてる、もろくてかけがえのない想いです。
怒りや憎しみの力に比べたら、どうしようもなく簡単に壊れてしまうものなんです。だから、より良い世界を創ろうとした過去全ての人たちの祈りを、無意味にしてしまわないために。それは最後まで頑張って守り通さなきゃいけないんです。諦めちゃいけないんです。

いつか、だれもがそう思うような時代になれば、その時はシビュラシステムなんて消えちまうだろう。潜在犯も執行官もいなくなるだろう、だから。

何よりも尊くあるべき法を貶めるのはなんだと思う、それは守るに値しない法律を作り運用すること。人間を甘くみないことね、私達はいつだってより良い社会を目指している。

#22:完璧な世界

 
 
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 メモ終わり。

 神学の話を少ししていますが、これが神の意志とテクノロジーを重ねる作品でもあり、そこに人が守るべき法とはなにかという問いを乗せるという物語構造になっているからです。神学と法学の比較が面白いなと思いました。宗教も人の行動規範を作るもので、法のような役目を負っていると言えるのかもしれませんが、神学は聖書の研究をするもの。聖書は法律とは異なり、原文を書き換えるということはない。法律は時代によって変わり変化を積み重ねていくものです。それ自体が、人類の願いの積み重ねだとこの作品は伝えているんじゃないかなと思います。

 「法が人を守るんじゃない、人が法を守るんです」という一期の終盤に常守さんがいうセリフがありますが、彼女は最後までそれを貫徹してみせましたね。すごい生き様だと思います。
 
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