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『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』のレビューを書きました

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 リアルサウンド映画部に、『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』のレビューを書きました。

 『スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース』が押し広げた映画の新たな可能性|Real Sound|リアルサウンド 映画部

 テクスチャー映画、という概念をここで提示しています。これからの映画は、テクスチャーがより自由になり、様々な絵柄によって表現される時代になると思います。この映画シリーズはその先駆けとなって歴史に名を刻むことになると思っています。

 映画は現実を切り取るものであるという信念は、映画を写実的なテクスチャーに押し留めていましたが、生成AI全盛の時代にそれは通用しなくなるはずです。その時、映像は正確性の担保としての機能は失い、代わりに表現のより多彩な自由を手に入れることになると思います。絵画の歴史になぞらえると、ルネサンスの正確性を追求した時代から、心で感じたものを描く印象派の時代へと変化したように、映像の時代にも大きな変化が訪れます。

 これはそういう時代の映画だと思います。
 
 
 以下、原稿作成時のメモと構成案。
 
 
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Michael Lasker on Twitter: “Every shot has a story, and I can’t overstate how incredible it was working with Director @shinypinkbottle & Production Designer @okeefe_artist Their brilliant art direction & design are burned into every frame of this movie #SpiderManAcrossTheSpiderVerse #AcrossTheSpiderVerse… https://t.co/0SgeJWoMSi” / Twitter
 
– Internet Photo Magazine Japan

バザンの写真分析は、このように実に鋭いものである。にもかかわらずこの論文は微妙な読みにくさを伴っているように思う。バザンが、写真を絵画などの芸術の延長として論じようとしているからである。たとえば彼は、絵画製作の根底にあり続けた「現実の複製」への人間の無意識的欲望が、写真によって実現されたかのように論じている。しかし、彼自身が言うように、写真とは自然現象のように人間が関与し得ないオートマティックな現実なのであった。だから、それはけっして人間の欲望の実現でも、その欲望の表現としての芸術でもない。それは人間とも芸術とも関係なく、ただ端的に「現実」としてある自然現象にすぎない。従って、もし写真が芸術と関わることがあるとしても(むろん事実関わってきたのだが)、あるパラドックスを内包せざるを得ないだろう。何しろカメラは、芸術家としての写真家のコントロールを受け付けないのだから。つまり写真は芸術的であろうとすればするほど非=芸術的になり(ビクトリアリズムの醜悪さを思い出せ)、芸術的であることを止めた瞬間にある種の芸術性を獲得してしまうのである(アジェを思い出せ)。もし私がこれから芸術としての写真を論じるとするなら、こうした視点からでなければなるまい。
 
– 『芸術としての映画』ルドルフ・アルンハイム | 現代美術用語辞典ver.2.0

映画が芸術でありうるのは、それが現実の機械的な再現にすぎないという状態を乗り超える限りにおいてであるというものだ。
 
意志とは何か

1164夜 『意志と表象としての世界』 アルトゥール・ショーペンハウアー − 松岡正剛の千夜千冊

ショーペンハウアーにおける「生」の概念 国立研究開発法人 科学技術振興機構
力への意志

 
 
デジタル革命の真の達成は、テクスチャーを変える意志を実現させたこと

そこには現実そっくりのテクスチャーを生成する能力も含まれるが、それはテクスチャーの在り方の可能性のほんの一部にすぎない。

この映画は、新しい映像意志を生んでいる。

意志を介さない痕跡こそが映画であるとした論は、現実を切り取るという「意志」の表れである。

アニメーションはコマによって運動を作るという意志

この映画にもアニメーションの遺志はあるが、もうひとつの強い意志が宿る。

テクスチャーをコントロールする意志だテクスチャーの選択それ自体が、作品を表現する上で非常に重要な要素になっている。あらゆるテクスチャーを自在に操る意志。これは、新しい21世紀のこれからの映像の主流になる可能性ある

生成AIは、あらゆるテクスチャーを可能にする。実写映像をアニメに、アニメ映像を実写にまで変換しうる。あるいは他の絵画スタイルにも変更できる。

それが意味するところは、絵柄と画面の質感そのものが表現としてのチョイスになる。

現実の模倣であればよかった時代はこれで完全に終わった。

なぜ終わった。他のどんな映画よりも複雑な世界観を、圧倒的にわかりやすく提示した。テクスチャーが異なる世界は別のユニバースであり、その住民は別々の世界からやって来ている。

意志、運命が決まっていても意志を貫く物語を描く

映画の誕生初期は、単なる記録の方が人々の想像力の上を行っていた。なぜなら、人は現実を、世界のほとんどを直に見たことはなかったから。今は違う。世界中すみずみまでカメラが行き渡り、珍しい現実はググれば見られる。

映像の森羅万象の方が「劇映画よりもはるかに空想的である」(『映画の眼』P177)

動くイメージの芸術は、他の種々の芸術と同じように古く、人間の生存の古くから在ったのである。そして映画は、そのいちばん最近の表現にすぎない。さらに言わせてもらえるなら、映画は写真再生の絆から解放され、人間の純粋な作品、つまり、動く漫画や絵画になる時にこそ、その他の芸術の高みに到達することが可能となるであろうと、私は予測している。(『芸術としての映画』ルドルフ・アルンハイム、P196、みすず書房)

我々は「テクスチャー・フリー」の時代を生きている。
 
 
Point3つ

生成AI時代に加速するテクスチャー・フリーの映像世界、そういう時代に今、僕らは生きている

映画はただの再生ではなく、芸術家の高みへと到達する・・アルンハイムの言葉を考える。

新しい映像意志、テクスチャーを時代に操って見せるという別の意志がここにある
 
 
Intro

前作はアメリカの3DCGの潮流を変えた

今度は映画そのものの変える一撃だ。

映画は再生か。
 
 

Body1現実をベースにしない映像の在り方を探る

映画はただの再生ではなく、芸術家の高みへと到達する・・アルンハイムの言葉を考える。

現実にはないマルチバース、人間の眼では捉えられないものを描く時、映像はどうあるべきか。

絵柄やテクチャーが異なるキャラクターの共存、そればかりかショットごとに、あるいはフレームごとに背景のテクスチャーがチェンジする。

それは、それが表現として意志ある選択としてなされている。

映画のデジタル化は、このテクスチャー変化を可能にした。撮影した映像をデジタイズし、3DCGを混ぜ合わせる手法はすでに一般化した。しかし、大部分の映画は、3DCGで写実的なテクスチャーを作ることに苦心する。現実こそが唯一の価値基準であるかのように、現実を紛れ込ませることにCGの使い道があった。

本来はいかなるテクスチャーにももっていけるのがデジタル時代のメリットである。その意味で、ようやくそのメリットを全面的に生かした作品が登場した。映画全体で統一のテクスチャーを目指さす、フレキシブルにショットの意図ごとに選択していく。それでいて、作品全体は作り手の統一的な意志が強く宿る。
 
 

Body2生成AI時代の映像表現の在り方を先どった

テクスチャー可変はすでに我々の生活の中でありふれた表現と言える。スマ写真のフィルター機能を一度も使用したことのない人はいるだろうか。

この現代に生きる人間の新しい常識は、Vチューバ―やメタバース的な想像力も含めて、テキスチャーとは変えられるものという新常識だ。

その時代に映像芸術はいかなる形をとり得るのか。その一つの回答がすでにここに示されている。

すでに今は「テクスチャー・フリー」の時代だ。この時代には、テクスチャーはそのままを選んだとしても、それは意図をもってそのままにしたことを指す。逆にいうと、我々は自らのアバターを含めて自分の外見テクスチャーを選ばなければならない。

そして生成AIの台頭はその傾向を加速するだろう。動画だろうとなんだろと、実写をアニメに、アニメ動画を実写に生成変化させることが可能になりつつある今、テクスチャーの選択は無限である。

その無限の選択肢を本作は、芸術的意図で束ねてフル活用してみせている。

グウェンが父親に会いに行くシーンの背景はただの背景ではなく、まるで絵具で塗りつぶしたような単色になったりすることがあるが、リアルなテクスチャーをただ置くのではなく、彼女の心象風景に合わせて変化していく。

前作はマイルズの世界に異なる世界からきたスパイダーマンたちが集結した、これによってテクスチャーの異なるキャラクターが並び立ったが、絵柄の異なるキャラが活躍するという面白さに留まっていた。これでも充分衝撃だが、

だが、今回は様々なユニバースが登場し、それらは少しずつ異なる世界であり、それを表現するためにテクスチャーが使い分けられる。このことによってマルチバースとは根本的に別の世界であることが強調される。マルチバースを描くためには、このテクスチャーの可変性が絶妙にマッチする、というかこれがないと本来は描き切れないのではないか。深いレベルでは描けない。

自分たちと同じ人間とは限らないモノが住んでいる世界を創造するために、この手法は絶対的に有効となっている。

先行例としてはデジタルロトスコーピングで実写映像をアニメーション加工した『スキャナー・ダークリー」などもあるが、あれも本編通じてテクスチャーは一種類に統一している、本作の驚きはやはりショット単位レベルでテクスチャーを変えても全体を作り手の統一された意志が崩れることがない点にある。そのテクスチャーによる表現手段として、完全にじぶんのものにしている。
 
 

Body3

動きでもない、記録でもない、テクスチャーで表現するという意志がここにはある

これは新たな映像表現の意志である。

テクスチャーを選び自在に操るという意志。

ありのままを記録するという意志で実写映画がなりたっているとすれば、動かないものを動かすという意志でアニメーションが成り立っているとすれば、この映画はアニメーション的感性にさらに、テクスチャーを操るという新しい意志を宿している。

新しい映像意志の誕生だ。

この映画はアニメーション映画であるが、ただのアニメーション映画ではない。新しい称号を与えたくなる。テクスチャーの映画という。
 
 
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 メモ終わり。

 アドルフ・アルンハイムの映画論は、これから見直されるかも知れないと思っているのです。実写とアニメーションの連載とも通じる内容がこの原稿には会ったと思います。連載として取り上げても良かったなと思っています。
 
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